8/16
 初日、大阪の貝塚に住む友人の家に泊まることにし、午後に出発。有馬のほうから国道176号に出て大阪に入り、171号から外環に入って市街地を避けて南下する作戦を立てるが、176号を走って171号との合流点を目指しているうちに、気が付けば右手に遊園地が。今どこにおんねんと思いながら止まるところを探したが、高速道路のような道で止まるようなところは無く、遊園地をだいぶ過ぎてから側道に下りてようやく止めれた。地図を見ると、どうやら吹田市にいるらしく、176号線から中央環状と呼ばれる府道2号線に入っていたようだ。ここから南下するには、ちょうど止まった近くの交差点からを右折して行けるみたいで、なるようにしかならんのでそこから行くことに。時間が夕方の4時を過ぎて、交通量が半端じゃなく多くなってきている。最初、車の多い大阪の市街地だけは避けようと思っていたが、どうやらドツボにはまっていってるらしい。帰宅ラッシュのせいか、車もバイクも多く休憩を取れないまま道なりに行っていると、現在位置がわからなくなる最悪の事態になった。とりあえず南に向いていればおおまかな方向は合っているはずなので、夕日を右に見ながらひたすら進む。そうこうしているうちに、なんか見たことのあるそごうの建物が見えてきた。
 「んっ?ここはもしや、心斎橋か?」
 思わず一人で叫んでしまうぐらいの衝撃だった。あれだけ市街地は避けようと思っていたのに、自分が今いる道はどうやら御堂筋らしい。まさに大阪の大動脈。んなあほなことがあるか。更に、ここから南下する国道26号を目指して走っていると、なぜか南港天保山近辺に来ていた。おかしい。大阪は魔物だ。道を知らない人間をたぶらかそうとしている。すでに辺りはどっぷりと日が暮れ、真っ暗になっていた。だが時間が過ぎたことによって交通量が減り、否応無く流れに飲み込まれてしまう事も無くなった。海を見ながら一息入れ、頑張って貝塚へと向かった。そして、貝塚に着いたのは午後9時半近くで、友人との酒もそこそこに、疲労から爆睡した。
走行距離 168.2km

8/17
 現金を持ち歩くのはなんか危ないので、友人宅の近くの郵便局で口座を開設して持ち金を預け、いざ和歌山へと出発した。
 国道26号から和歌山市街を抜けて国道42号に入り、ひたすら南下する。白浜辺りまでは交通量も多く、所々渋滞もあったが、そこを過ぎれば快調なルートになった。山が海に迫る海岸線を縫って、時には右に青い太平洋を見ながら走り、時には山の中を疾走する。道が一本しかないので地図も要らない。瀬戸内海とは違って真っ青な海がとても印象的だ。
 朝出発するのが遅かったが、ほとんど走りっぱなしで夕方の4時頃串本に着いた。昔家族旅行で来た事のある串本海中公園で宿の手配をし、今日の唯一の目標であった潮岬へ出発した。串本から潮岬は近いのですぐに着き、灯台は昔に来たので灯台脇から断崖絶壁の獣道のような所を、行ける所まで行った。夕方なのに岬の岩場にはまだまだ釣り人がたくさん居て、そこまで降りていきたかったが、どうやらここから降りる道はないらしい。落ちたらすぐ行けるんやけど、魂が逆に天に昇ってしまいそうなので断念した。
 この日の宿は湯川温泉というところで、勝浦温泉のちょっと手前にある、宿が数軒しかない小さな温泉街だ。この内の衣笠という旅館に素泊まりしたが、温泉だけあって岩風呂で、なかなか良い宿だった。ここにはまた泊まりに来たい。
走行距離 264.3km

8/18
 この日、朝一番に那智の滝へ向かったが、人がべらぼうに多く、駐車スペースもあんまりなさそうなので、遠くから眺めるだけにして先を急いだ。新宮から新宮川沿いの国道168号線を北上し、熊野本宮大社のある本宮町を目指す。道は途中1車線の所もあるが、大きな川沿いのワインディングロードで、結構とばしている地元民らしきシビックの後ろについて楽しませてもらった。熊野本宮大社は山間にあって、杜の木が大きく、さすがに荘厳なイメージを受ける。江戸時代は蟻の熊野詣と言われ、諸国から一生に一度の大旅行として庶民が参拝し、隆盛を極めたという。今でもそこそこ観光客はいるが、江戸時代はこの比ではないだろう。ここでは勾玉と交通安全のお守りを自分への土産として買った。
 本宮を出て、国道168号をそのまま北上し、十津川村から紀伊山地越えの国道425号に入ったところでこの旅一番のトラブルが発生した。ずばり、コケた。場所は1車線の左ヘアピンコーナーで、ダンプカーが視界に入ったのでブレーキをかけた瞬間、浮き砂に乗ったらしく、タイヤが抜けて転倒した。この数時間前にお守りを買ったばかりなのに。破損箇所は、左のウインカーのカバーとバルブが割れ、シフトペダルは内側に曲がってフレームに当たり、カウルは左側がズリズリになったが、エンジンや足回りは大丈夫みたいだ。体は幸いにも肘に直径2cm程度の擦り傷があるだけで、かさぶたになってちゃっちゃと直るだろう。問題はバイクで、とりあえずシフトペダルを工具で曲げてシフトできるようにし、十津川村で修理できるところを探した。しかし十津川村にはカブを直せる店はあっても、大きなバイクを直せる店は無かった。とりあえずバルブだけは交換したが、ウインカーのカバーが無いので白く点灯するウインカーになった。
 転倒によってだいぶ時間をロスし、今日中に岐阜まで行くことは無理そうだ。だが行くしかないので行けるところまでがんばろう。
 再び国道425号に入り、紀伊山地越えを目指す。国道も400番台になると2車線なくても当たり前ぐらいの雰囲気で、この道もほんまに国道かいと言いたくなるような道幅と舗装だ。地図によると、最高点の辺りは山を突き抜けるトンネルが1kmの長さであるらしい。このトンネルを目指して1時間近くも延々と登った頃、ようやくトンネルが見えた。既に眼下はえらい景色になっていて、ある種の感動さえ覚える。しかし、現れたトンネルはライトが全く無く、遠くに出口がぽつんと光っているだけだった。これはどこに向かうんやという恐怖を感じるくらい光は遠くに見えた。だが、ここまで来たら四の五の言ってる場合ではないので、トンネルを突き抜けて三重側へと下っていった。時間はすでに4時になろうとしている。急がねば。
 紀伊山地でも、三重側に入ると景色の持つ雰囲気が違ってきている。口ではうまく表現できないが、色が濃い感じというかなんというか、そんな感じ。あまり距離的には違わないのに微妙に違ってくる景色に感心しながら、国道169号に入って更に北を目指した。名張に入る手前で日が暮れたので、名張で宿の手配をしようと思ったが、なんと名張には2軒しか宿が無かった。しかも1軒は定休日で、もう1軒は既に廃業したらしい。これで野宿が決定した。
 名張から上野までの間で適当に広場を探して野宿したが、暑くてどうもよく寝られなかった。昼間にコケて怪我してるし、風呂に入りたい。
走行距離 312.6km

8/19
 野宿では太陽が上がってくると目が覚める。この日も早朝に目が覚め、身支度していると、近くの交番の案内板に丸山城の文字が。特に有名でもなければ大きくもない城のはずだが、城の字を見た以上、行かないと気がすまない。準備を済ませてとりあえず丸山城を目標にして出発。しかし、該当する辺りには城の表示が無い。丸山という地名付近でうろうろするが見当たらず、小山があるにはあるが表示が無い以上断定もできず、ここで時間を食ってるわけにもいかないので、仕方なく伊賀上野へ足を向けた。
 伊賀上野に到着したのは午前8時前。当然伊賀上野城近辺の施設や売店は開いてるわけもなかったので、とりあえず城の縄張りだけを見た。ぶらぶらして時間をつぶしてから周辺の施設をまわる手もあったが、昨日は予定よりも全然進んでないので、先を急ぐことにした。
 上野からまっすぐ北上し、関ヶ原に到着。ここは歴史上、壬申の乱と関ヶ原の合戦という2度の天下分け目の対決があった要衝で、東西に中山道、北に北国脇往還がある。伊勢方面の東海道にも繋がり、琵琶湖の湖上交通からも近く、地形はほぼ平坦で、大軍の集結、展開が非常にやりやすい。現在は一面の田んぼになっているが、国道21号線や名神高速、新幹線、在来線が東西に走り、交通の要衝であることに違いは無い。何年経っても人間の営みにはたいした違いはないということか。逆に考えれば、冬場は雪の為、これらの交通にとって関ヶ原は弱点になっているが、数百年昔も旅人は難渋したんやろうな。容易に想像がつく。
 とりあえず、歴史民俗資料館というのがあるので訪れてみた。ここでは、壬申の乱と関ヶ原の合戦、地域の民俗資料が展示してあり、特に関ヶ原の合戦について詳しい。合戦の端緒から開戦後の流れ、有名な小早川秀秋の寝返りから西軍の退却戦まで、時間を追って説明してあって非常に分かりやすい。
 資料館を出て、すぐ前にある家康の最終陣地と、北にある合戦の決戦地碑に寄ってから、国道21号を東へ向かう。そのまま国道をたどっていくと大垣に着く。大垣城は関ヶ原の合戦でも重要な位置を占めた城で、現在は戦災で焼けてしまった天守が復興され、その周辺だけが城跡として残っている。もともと平城だった為、城跡の大部分は開発され、名残は殆ど残っていないが、周辺の道路は堀を埋め立ててできたらしく、それをたどっていくと当時の城の形がおぼろげながら見えてくる。こういう想像する楽しさが、考古学の原点なんかなと、改めて思う。
 大垣を出て岐阜へ向かう途中に墨俣というところがある。現在でも河川が入り組んで複雑な地形をしているので、昔は水害が絶えなかっただろう。ここには豊臣秀吉の出世の足掛かりとなった墨俣一夜城があったところだ。城があったとされる近辺には立派な鉄筋コンクリートの近代の城が建っており、中は資料館になっている。城の展望台からは、遠く岐阜稲葉山城を見ることができる。まだ織田信長が尾張一国の国主でしかなかった頃、美濃攻略の拠点としてこの地を必死で押さえようとし、美濃の斉藤勢もその都度迎撃した理由がここにくればはっきりする。
 墨俣を出て、当時の信長軍が岐阜に迫ったように、岐阜に入る。岐阜城は関ヶ原の合戦の時に落城し、江戸時代には城は廃城となっていたが、城下はその後も栄え、岐阜の名が今でも残る結果となった。城の麓には信長が営んだ館の石垣が発掘され、広い公園となっている。山頂の城へはロープウェイが通っているが、ここは敢えて徒歩で登ることにした。関ヶ原の当時は3ルートあったようで、3ルートから一斉に攻撃されたらしい。自分の足で登ると、山城を攻撃することがどれだけ労力の要ることかわかる。昔の人は迎撃されながら登ったんだから、大変な思いをしたことだろう。途中2度ほど小休止して下の景色を見たが、夕焼けに映し出された長良川沿いの町はとても綺麗だった。
 頂上に着いた頃には天守閣は閉まっていて、人影もまばらだったが、野生のリスが出迎えてくれてちょっと心が和んだ。ロープウェイももう止まっているので、頑張って自力で降りなければならない。登るのには40分ほど、降りるのには30分ほどかかって、出発する頃には6時半ごろになっていた。今日は長野の友人宅に止まる予定なのに、だいぶヤバイ感じ。とりあえず頑張って高山まで走ろう。
 高山までは国道41号線をひたすら走るのだが、途中短い食事休憩を入れて高山に着いたのは10時半を過ぎていた。さすがにここからアルプス越えをして長野に入るのはちょっと無理。友人に「着かん」という連絡を入れて野宿をすることにした。もう2日も風呂に入っていない。かなり体が気持ち悪い。
走行距離 405.4km

8/20
 朝6時ぐらいに起床して顔を洗っていると、どうもまぶたが腫れている。寝起きの腫れじゃなさそう。鏡で見てみると蚊に刺されたらしい。しょっぱなから感じ悪い。
 昨日の続きで41号を北上して富山を目指す。友人の家に着くことができなかったので、新潟はまた今度の機会にしよう。高山から1時間ほど霧のかかる山間の道を走ると富山に入った。富山市街は路面電車が走っているので、車線変更や右左折のときにけっこうタイヤをとられる。250ccのタイヤの太さでは敵わんらしい。適当に喫茶店でモーニングを食べ、9時になるのを待って富山城へと向かった。ここは城の一部が残っており、城址公園には写生に来ていた園児の姿が目立つ。なかなか風情のある公園だ。
 富山からはいよいよ折り返しになる。ここからは日本海側を下っていけば良い。前田家縁の高岡城金沢城小松城をたどっていく。
 富山から金沢までは想像していたよりもはるかに交通量が多く、意外と都会な感じがする。富山に程近い高岡城は、2代利長の隠居城として食客となっていた高山右近が設計した城で、城として機能した時間は少ない。今は古城公園となっていて、動物園や競技場があるが、内堀や外堀などは健在で城としての威厳を今なお残している。
 金沢は想像通り観光客が多く、バスがうっとおしい。この日は特別な日らしく、普通は有料の兼六園がタダで入れるらしい。興味はないけどタダなら入っとこうかみたいな感覚で入ってみたが、人が多くて落ち着かない。どうやら自分には、日本庭園のよさはまだまだ分からんらしい。兼六園のすぐ向かいには金沢城がある。兼六園が藩主の庭園として作られたから向かいなのは当然なんやけど、城は去年まで金沢大学があったらしく、現在は移転に伴う工事で入れなかった。兼六園と繋がっている石川門だけ見て満足したが、城にキャンパスがあるなんて城好きには羨ましい話だ。
 金沢を出て、国道8号線を下っていき、小松城に寄った。ここも前田家縁の城で、3代藩主利常の隠居城として使われ、江戸時代には珍しく一国一城制の例外として扱われた。これは、徹底的にアホのふりをして豪奢な生活をした利常に対する、幕府の警戒感の無さを示すもので、利常の一生かけた芝居の結果がここに顕れているようだ。ただ残念な事に、三ノ丸跡が芦城公園として残っているだけで、そのほかでは天守台の石垣がポツンとグラウンドの横に寂しく残っているのみだった。
 再び国道8号線を下って、今度は大聖寺城を訪れた。ここも江戸時代には前田家の支藩があって縁の地ではあるが、城が建てられた事はなく、山の麓に陣屋を構えただけだったらしい。おかげで中世城郭の跡をよく残した城跡となり、自分みたいなお城のファンにとっては貴重な存在だ。ここからあれこれ想像していくのが楽しい。城下の町割りも形が残っていて、麓の細い堀から散策すると、古い町の形が不思議と懐かしい。昔、明石の城下町や宿場町でよく遊んだからかな。
 この日は片山津の民宿志麻に宿を取った。洗濯もさせてもらい、2日ぶりの風呂はめちゃめちゃ気持ちよかった。料理は豪華でちょっと料金は高かったけど満足。
走行距離 258.1km

8/21
 朝、うかつにもサービス料の分だけお金が足りなくなって、9時を待って郵便局に走ったので出発が遅くなってしまった。
 片山津から再び国道8号を南下し、今日は福井をめぐる。まず丸岡城の形式の古い天守に登り、そのすぐ下にある丸岡町歴史民俗資料館にも立ち寄ってから、福井城があった福井県庁を目指した。福井城は、戦国時代は北ノ庄城と呼ばれ、柴田勝家が北陸経略の拠点としたところで、九層の天守閣が建っていたらしい。その天守は、賤ヶ岳の合戦で勝家が敗れ、勢いを駆って進撃してきた秀吉軍によって北ノ庄城が落城した時、お市の方と共に自刃した勝家自身によって火が放たれて焼け落ちた。今少しだけ残っている城の石垣は、徳川家康の次男結城秀康が築いたもので、秀康以降の越前松平藩の居城となった。今ではすっかり城の面影も無くなり、都市化していて少し残念な感じがする。
 福井から東へ少し行った所に、越前朝倉氏の本拠があった一乗谷がある。福井側から行くと、一乗谷に入る直前に資料館があるが、この日は月曜だったので休館だった。バスで来た人が同じように休館で仕方なさそうにバスの時間を調べていたが、そこにどっかの婦人会のおばちゃんが来て、強引に館長と直談判して入館してしまった。この時、あんたも入りと言われ、じゃあ遠慮なくと入っていったが、バスで来てた人はおばちゃんの勢いを恐れるように断っていた。
 その婦人会は何の用があったかというと、地元にどうやらちっちゃな城があるらしい。それを町おこしに利用しようと城の由来と何らかのヒントを求めて来たようだった。この資料館の館長は中世の歴史に詳しく、中世城郭に関する論文も幾つか発表しているらしくて、ちょっと自慢げにそれを言っていたが、俺的にはちっちゃな城の由来を調べていた城の専門書が欲しかった。
 館長には会えたものの、常設展示をまったく見れないまま資料館を後にし、すぐ近くの一乗谷に入った。ここは最近発掘調査が行われ、朝倉時代の街並みや居館がせ復元されつつある。でも建物類にはあまり興味が無いので早々に一乗谷城に登った。この城は朝倉氏5代の居城で、この城と他3つの支城で一乗谷を囲むように配置され、その主城らしく大きな規模の平坦地が今に残り、登る道は非常に険しい。しかもこの日は前日が雨だったらしく、登山道が川になっている部分がちょこちょこあり、土もよく滑ってなかなか大変だった。それだけに登り終わった時の達成感と、頂上にある郭群の大きさには感動した。
 一乗谷を出た後は、再び国道8号線を南下して金ヶ崎城に向かった。途中、敦賀鞠山海岸で宿の手配を済ませ、城に着いたのは午後6時ごろで、急いで城の遊歩道をまわったが暗くてあまり分からなかった。だが、今は東側が埋め立てられているが、当時は三方が海だったという突出した地形と、所々ある平坦地から、感覚的に要害の城というのは掴めた気がする。
 宿は敦賀や金ヶ崎から程近い鞠山海岸の民宿で、おじいちゃんとおばあちゃんがやってる古いところ。おじいちゃんとおばあちゃんは親切で、なんともいえない雰囲気がのんびりとさせてくれた。いつまでも元気で頑張って欲しいな。
走行距離 133.0km

8/22
 ついに最終日。この日の予定は北近江と舞鶴をまわることにした。
 朝、とりあえず北近江に入るべく、敦賀から8号線で山越えする。県境を越えて近畿に帰ってきたと感じる北近江は、賤ヶ岳や浅井氏の本拠地小谷城など史跡も多い。
 とりあえず朝一番は賤ヶ岳に向かう。ここはリフトがあって登るのは非常に楽だが、早すぎてまだ動いていない。ジュースを飲みながら一息ついていると動き出したので、一番乗りで乗った。一般には賤ヶ岳とは山頂一帯を言うそうで、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った合戦は、この一帯を含む周辺の広大な山地で行われた山岳戦だった。現在の賤ヶ岳は、当時無数にあった陣城の跡も静かに眠る絶景のポイントで、南には琵琶湖が、北には毛受兄弟が奮闘した余呉湖が見渡せる。視界には市街地らしきものはほとんど無く、ただただ広大な田園風景と山地が広がっている。
 賤ヶ岳からちょっと南に行くと、小谷城がある。江北を支配した浅井氏の本拠地で、幸いなことに山頂の主郭まで車道が通っていて、バイクで行くことができた。秀吉が長浜城を築城した際に、資材をこの城から持ち出した為、城跡に建造物はなく、所々に石垣が残る程度の史跡になっているが、織豊以前の中世末期の城の形のまま破却されたので、戦国時代真っ盛りの時の城の形を残していて、これはこれで実用的な無骨さが残って良い。峰伝いに階段状に郭が並んでいるが、落城直前に真ん中の京極丸が秀吉によって奪われ、久政と長政は連絡が取れないまま別の日に自害したという。主郭がある峰の北の谷は清水谷と言い、ここに居館と城下が営まれていた。今ではただの田んぼとなっているが、当時は栄えていたんだろう。400年も経てば、当時の営みなど露ほども残っていない。
 昼からは江北を離脱し、再び日本海に出て小浜に寄ってから舞鶴へ向かう。小浜は中世に若狭守護だった武田氏の城下町として栄え、江戸時代は小浜藩が置かれいた。この藩の本拠であった小浜城は、川と海に囲まれた海城で、周辺が埋め立てられて地形が変わってしまった今も、海が近いので海城の面影は充分に残っている。建物類は全く無く、神社の境内となっているが、周りを取り囲む石垣は良い雰囲気を残している。
 小浜を出て国道27号線を西に進むが、舞鶴に近付くにつれて渋滞がひどくなっていく。夏も終わりとはいえ、昼の日差しは強く、渋滞中は水温計がすぐ100度を越える。その度にファンが回って、物凄く熱い空気が太ももを直撃して辛い。
 どうにか舞鶴に到着したのは午後3時近くになってからだった。舞鶴城は別名で一般的には田辺城という。地名も昔は田辺といっていたらしいが、別名のほうが有名になってしまった。関ヶ原の戦いの時は、細川幽斎が手兵の五百人ほどで、一万五千の敵兵から城を守り通したぐらいだから堅城のはずだが、今は城自体ほとんど分からないぐらいしか残っていない。城門だけが復元されているが、城門だけだとちょっと滑稽な感じがする。
 7日に渡る旅もあとはもう帰るだけになった。高速でひとっ飛びすれば、もう神戸に入ってしまう。そう思いながら舞鶴自動車道に入ると、車の流れがかなり速い。あれよあれよという間に吉川に着いてしまった。もうあとはいつものドライブコースを帰るだけだ。また旅に出よう。なんとなくそう思った。
走行距離 301.3km
合計 7日間 1842.6km

No.4
No.3 No.5