| 〜中編からの続き〜 |
|
| 11/5 朝、素泊まりで6000円とはちょっと高いなと感じつつチェックアウトし、海沿いの曲がりくねった道を戻って津奈木に行く。その理由は1つしかない。昨日、津奈木に城があるということが分かったからだ。 国道3号線沿いのつなぎ温泉周辺を散策してみたが、特に登山道らしいきものは見当たらなかったので、国道3号線を戻って登山口を探す。しかし、つなぎ温泉から3kmほど戻ってもそれらしき案内がなかったので、もしかしたら登山道はないのかも知れんなと思いながらUターンしてしばらく行くと、道沿いに舞鶴城公園の案内を発見した。案内板の方向が反対で見落としたらしい。今日はなかなか冴えてるなと自画自賛しながら登山道を登っていくと、なかなか険しい道程を経て公園へと着いた。 この津奈木城は岩質の山の頂上にあり、案内にあったように現在は公園となっているが、この日は工事業者の車両が何台かあったので、何かの工事の最中らしかった。真下につなぎ温泉があるので、もしかしたらそれと関連させて整備するのかもしれない。周辺には、郭の跡だったと思われる公園以外にも整備されずに石垣などの遺構を残している部分があり、とても峻険な要害で地形効果を最大限利用した小城らしい造りだ。 津奈木城を下りてコンビニで朝食を済ませ、津奈木からは昨日と同じように国道3号線を下って行き、水俣市街の外れにあって城山公園となっている水俣城に立ち寄った。しかし、この城は公園として整備されているだけで遺構はほとんど残っておらず、史料上によく登場する有名な城としては寂しい現状だ。もうちょっと何とかならんかったんかいと思いながら少ない遺構を探索し、消化不良のまま思ったよりも早い時間に九州最南端の鹿児島県へと入った。 矢筈岳からせり出して来ている山塊を左手に県境を越えると、まず最初に出水の市街地へと到着する。ここには江戸時代に薩摩藩の関所が置かれ、日本が外国に対して鎖国していたのと同様に薩摩藩も他の藩に対して鎖国状態であったという二重鎖国の政策によって、出入りが非常に厳しく制限されていたといわれる。よく挿話で伝わっているのは、幕府の諜報部員である隠密が他藩の調査には成功するのに、薩摩藩の調査に行った者だけは誰一人帰って来なかったという話であるが、周辺は今も関所の街としての雰囲気を残しているものの、宿場町として賑わう中にも監視の目が光って殺伐としたものがあったであろう当時の様子は消え去って、田舎町の穏やかさがあるばかりだ。また、鹿児島県内の市街地のほとんどがそうだが、戦国時代に城があり、その地形的な構造を残して事実上の城としながらも幕府への配慮で江戸時代に廃城と称して建物の類は取り除き、屯田兵のようにその周辺に郷士を配して麓と称された地名も市街地に残っており、それに伴う武家屋敷が観光資源になっている。 この武家屋敷をゆっくり眺めながら流していると、地図上で花見ヶ城と記されてあった出水城を案内板の中に見つけたが、そこには亀ヶ城と表記されていた。だが、案内板の近くにこの城への登り口はなく、山の周囲をぐるっと回ってみても、麓のぎりぎりまで住宅地が迫っていたりはしたが、それらしい道は見つけられなかった。唯一、農道のような未舗装の道が山へと入っているように見えたが、じっくり探している時間も無かったので、断念して先を急ぐ事にした。 出水から国道3号線を外れたまま、長閑な県道を鹿児島本線と併走しながらしばらく行くと、再び国道3号線と合流して道は南へと方向を変えるが、そのまま国道で海沿いに阿久根を走り過ぎ、今度は海から離れるように東へ少し入ると川内に到着する。この川内には、古代に国府と国分寺が置かれ、薩摩の中枢として機能していたが、中世以降は島津氏が本拠を置いていた鹿児島が薩摩と大隈の中心として栄え、今でも県名とその県庁所在地がそうであるように変わりがない。逆に現在の川内は、中世までは古代の名残で豪族の城があり、薩摩国主であった島津家とも繋がりが深かったようだが、江戸時代には外城のひとつとして衛星都市になり、今では過去に首邑であったことが嘘のようにただの田舎町に成り果ててしまっている。もともと人口の少ない古代に国府などの機能が置かれたということは、実力者が支配していた集落があったはずで、都市としての立地条件も良いはずだが、島津氏に代わる勢力が薩摩に出てこなかった為に、中世以降の鹿児島の優位は変わらなかったようだ。 まあ、そんな都市の歴史論はいいとして、川内に立ち寄った理由はただひとつ、中世にあったはずの平佐城を訪ねる為だったが、城の跡地にあるらしい駅の案内板を見たり、少し周辺をぶらぶらとしてみたものの、結局城を指し示す情報は得られなかった。 川内を出て、国道3号線をそのまま南下するとすぐに串木野へと入るが、ここでも串木野城の情報が得られなかったので、九州にはどんだけあんねんというぐらい見かけるJoyfullで昼食を済ませ、鹿児島へと向かう国道3号線に別れを告げて、海沿いの国道270号線を南下していく。今日は昼から雨という予報だったが、この辺りから雲行きがいよいよ怪しくなっきたので先を急がなければならない。雨が降る前に、何とか近世島津氏発祥の地となった伊作城だけは回っておきたい。 幸い串木野からは、それほど速度は上がらなかったものの、信号もなく流れが良かったので、思ったよりも早く伊作に着くことができたが、伊作には城を指し示す案内が無く、探しているうちに一旦通り過ぎて田中城という島津氏入部以前に勢力を持っていた豪族の城へと辿り着いた。せっかく城を見つけたので、とりあえず周囲だけをブラっと見学し、すぐに伊作へと引き返したが、手持ちの地図には当然伊作周辺の詳細な地図など付いていない。そこで、城の近くである確率が高い麓という地名を目指して走り、その麓という場所から周囲にある山に目星を付けて道を辿っていくと、予測通り伊作城を発見する事ができた。これだけ思惑通りに探り当てれると気持ちが良い。俺ってばなかなかやる。 伊作城には、宗家を継いで戦国島津家の基礎を築いた貴久と、その父で貴久の入嗣に心血を注いだ忠良、そして島津家を九州の覇者に押し上げた4兄弟の誕生碑があり、城自体はシラス台地を利用している為、郭は広く堀が深い要害だ。この草深い場所から、戦国、江戸、明治初期と、力を保ち続けた近世島津家が興ったと考えると、なにやら感慨深いものがある。 伊作から少し走ったところでついに雨が降り出したので、少し水漏れし始めているカッパを着込み、南へと進む。伊作から10kmほど南には加世田があるが、ここには加世田城という城があった。島津宗家の継承を巡る争いで、島津忠良・貴久父子と対立した薩州島津家の実久が拠点のひとつとした城で、忠良が自身の生涯で最も激しいと語った合戦がここで行われ、戦死者を祀る塚なども残っている。だが、最初は地図を見ても城の詳しい場所が分からず、加世田には鉄道が無いのでバスのターミナルにあった地図で場所を確認し、ブラブラとバイクで走ってなんとか辿り着きはしたのだが、如何せん雨が激しくなっていたので、残念な事に十分な散策ができなかった。 雨が降る中、加世田から南西に抜けて知覧に入った。ここは、第2次大戦の時に特攻隊の基地が置かれた場所で、跡地には知覧特攻平和会館が建ち、特攻で散っていた若者の姿を伝えている。ちょうど季節的に修学旅行シーズンということもあって修学旅行生でごった返していたので、落ち着いては見学できなかったが、それでも当時出撃していった若者のことを考えると、深く感じるものがある。原爆資料館などもそうだが、修学旅行生のように感受性の敏感な若い間に、こういう戦争の悲惨さや負の遺産を少しでも見たり感じたりしておけば、将来戦争を起こそうという気は無くなるだろう。自分も若い頃はあんまり感じなかったが、震災ではよく知っている街並みが壊滅するというなんとも言い表せない哀しみを感じ、世界各地の紛争で人々が簡単に殺されていくのをメディアで見て、だんだんと戦争したらアカンという感情がリアルな実感として心に棲みついてきた。巨大なテロが起きて世界がきな臭くなってきているだけに、こういう体験を大事して欲しいね。 知覧は特攻隊の基地という負の歴史を持っているが、江戸時代は武家屋敷があり、今では観光名所ともなっている。鹿児島県内のあちこちにある武家屋敷と同じように、薩摩藩の外城制によるものだが、幸い平和会館を出ると雨が止んでいたので、とりあえず外城制の元になった城を見に行くことにした。地図によれば、知覧には知覧城とその出城である亀甲城というのがあり、亀甲城は武家屋敷のすぐ近くにあるので後で行く事にして、山のほうへ入って知覧城へと行ってみると、駐車場には1台も止まっていない。やっぱりここは観光コースから外れてるんやなと思いながら城の入口の方へ行くと、発掘調査の為に入れないという表示が。こんな遠いところに来て運が悪いと思いながらも、入れないものは仕方がないので来た道を引き返し、通り抜けにお金のかかる武家屋敷を右手に見ながらスルーして進んで行くと、亀甲城が見えてきた。この城は、知覧城の鹿児島方面に対する出城なので、規模は大きくないが、遊歩道などが整備されて散策しやすくなっている。 天候が回復し、時折雲間から日が差すようになっている中を知覧から更に南下して、薩摩半島の最南端、長崎鼻を目指す。知覧から南はシラス台地特有の地形が続き、台上には茶畑が一面に広がって、まるで静岡のような風景になる。どちらも火山灰地で地質は近いんやろう。戦国時代の島津家中に頴娃という名の猛将がいたなと思いながら頴娃町を過ぎ、海岸線の国道226号線に出ると、まるで開聞岳に向かって真っすぐ走っているような、そんな道になる。さすがに薩摩富士と呼ばれているだけあって、その形はとても優雅で美しい。 イッシーがいるという池田湖に寄らず、開聞岳の前を通って西南方向へ進んで行くと、いよいよ長崎鼻へと到着する。だが、ここにきて天気が再び悪化して時々雨が落ちてくるような空模様になってしまい、しかも5時を過ぎて日差しが弱まった為、既に薄暗くなってしまっていた。岬の近くの商店は時間が遅いのでどこも閉店していたが、逆にそのおかげで人気が無く、薄闇に浮かび上がる開聞岳は自然の雄大さを感じさせるのに十分だった。ただ、灯台が工事中でネットに囲まれていたのは残念やったけど。 長崎鼻を出発する頃にはほとんど日が暮れていたが、しばらく走っているとパラパラ降っていたお湿り程度の雨はあがったようだ。とりあえず近くのコンビニに寄り、電話帳から宿を探してみると、前之浜の民宿に予約が取れた。完全に日も暮れた事やし、あとは指宿あたりで飯を掻き込んで宿に向かうだけや。どうせJoyfullぐらい国道沿いにあるやろうと、いいように考えて国道を走っていると、予想通り指宿にJoyfullがあったので手っ取り早く晩飯を済ませ、雨に降られて温泉街をブラつく元気もなかったので、そのまま前之浜に向かう事にした。 予約の取れた民宿に到着すると、二間続きのかなり広い部屋に通されたが、テレビは100円式のテレビだった。天気予報が見たかったので100円を入れてテレビをつけようとすると、なんと100円玉が溜まるところの鍵が開いていて、100円玉が3枚ほどあった。これはラッキーと独り言を言いながら、そこにあった100円玉をリサイクルしてもう1度入れ、テレビをつけることができた。 しばらく体を落ち着かせてから風呂に入ってあがってくると、宿の主人が子供を連れてお風呂に入る声が聞こえた。こういうところは民宿らしくていい。広い部屋やし、テレビもタダやし、なんか得した気分。 |
|
| 走行距離 269.92km |
|
| 11/6 いつもより早く起きたこの日、昨日と同じように100円玉をリサイクルして悠々とテレビをつけ、早めに出発した。なぜなら鹿児島市が控えているからだ。熊本以来、渋滞らしい渋滞はないままここまで来たが、さすがに鹿児島市街には渋滞があるやろう。まして、まともに行けばちょうどラッシュの時間帯にあたることやし、ちょっと早めに出て市街に入り込み、混む時間は朝食を食べる時間に当てたい。 昨日とうって変わって快晴になった空の下、遠く桜島を眺めながら走る海岸沿いの国道はとても気持ち良いが、しばらく走ると国道は市街地へと入り、次第に交通量が増えてきた。信号による停車で渋滞っぽくなってきた8時頃、国道沿いにコンビニを見つけ、朝飯を摂ることにした。 コンビニでは清掃業者が本格的に掃除していたが、表の駐車場でかなりゆっくりと朝食を摂ってから8時45分頃に出発し、再び国道225号線を北上する。このままドン突きまで行けば城山の麓に行けるようなので何も考えずに直進して行くが、流れは思ったほど悪くない。そういえば友人が鹿児島に遊びに行ったとき、モスバーガーが至る所にあると言っていたが、何軒かは見かけたものの、それほど多くないようだ。それよりも、ここにきてようやくJoyfull以外のファミレス、ガストがあったことに妙な感動を覚えていた。 そうこう考え事をしているうちに、バイクは市街地の商店街っぽいところを抜け、城山の麓にある照国神社の前に辿り着いた。地図で見ると、西南戦争の激戦地となった城山には別のところから車道が通っているが、朝一で体力もまだあるので、神社の横から出ている階段で登っていく事にした。この道は、所々遊歩道のようななだらかな坂になってはいるものの、ほとんど階段でできているので思ったよりもハードだったが、登りきると城山に通っていた車道の終着と思われる城山展望台の駐車場に辿り着く。ここからもうしばらく歩いたところが展望台だ。 江戸時代、この城山には時を告げる太鼓が置かれていたようだが、戦時の際には麓の鹿児島城の詰となるようにしてあったのだろう。もともと城山には、鹿児島城築城以前に上山という名の豪族の城があり、島津氏はその城址遺構をそのままにしたか手を入れて整備したようで、今でもその名残である、軍事設備として整備された地形が確認できる。だが西郷隆盛は、軍事面での最後の砦としてこの地を選んだというよりは、散るべき最期の場所として鹿児島を象徴するこの城山を選択したのだろう。鹿児島市街や桜島、錦江湾が一望できるこの地は、維新後も薩摩という枠に囚われてしまった幕末の巨星らしい死に場所でもある。 城山を下り、少し北東へ歩くと、かつて鹿児島城であった一角に西郷隆盛の銅像がある。一応観光名所らしく、ちらほら記念撮影している観光客がいたが、東京にある有名な像よりも何かぬぼっとした感じがして、少しイメージしていたものとは違った。ただ、東京の像の浴衣姿も懐の深い西郷らしさを表してはいるが、鹿児島で散った西郷ということを考えると、軍服というのも似合っている。 西郷像から更に北東に歩くと、鹿児島城の本丸跡がある。現地には鹿児島城ではなく別名の鶴丸城という名で碑が建っているが、鹿児島城のほうが全国的には通りが良い。この城はもともとが居館形式の城で、城山の麓の非常になだらかな斜面にあり、防御施設というよりは政庁の機能を重視した城だったが、今では目の前に道路が走り、僅かに堀と石垣が残っているのみである。跡地には、黎明館という名前の付いた歴史資料センターが建っており、かなり分かりやすい展示内容が良かったが、知覧に引き続いてここにも修学旅行生の5人ほどのグループが2組ほど来ていた。よく見ると、駐車場には貸し切られたと思われるタクシーが2台止まっており、それを使って自由行動をしているらしい。自分らの時は常に団体行動で、自由時間なんてほとんど無かったことを思えば、何やら隔世の感がある。 鹿児島では、戦国時代の島津氏の本拠地だった内城も訪れたかったのだが、期待した黎明館には場所を指し示す資料がなかったので諦め、国道10号線を北東へ向かう。近世島津氏以前の島津本宗家の本拠地だった清水城は、この道沿いの清水町にあったんかなと思いながら、北へ延びる県道を伝って蒲生を目指した。 蒲生には豪族蒲生氏が本拠地とした竜ヶ城とも呼ばれる蒲生城がある。この城もシラス台地を利用している為、平坦地が広い上に侵食された谷筋を利用した堀は深く、かなりの要害だ。ただ、今では公園化されて登山道や遊歩道も整備され、多少アップダウンは激しいものの、散策に適した場所になっている。 次は蒲生から東に県道を走り、海岸線の国道10号線に戻って加治木に入ったが、目指した加治木城はアクセスした道がえらい道で、狭い上に急坂だったのでバイクを止める事ができず、バイクに乗ったまま軽く見て回るだけに留めた。加治木は結構歴史的にも、島津氏と肝付氏の争いで重要だったからしっかり散策したかったのだが、知らない民家に入ってまでUターンせざるを得なかったぐらいの道に迷い込んだのが運のつきやったね。しかし鹿児島市近辺は急な坂が多い。シラス台地を切り開いて通した道が多いからなんやろう。鹿児島独特の地形ということやね。 今日の目標である佐多岬に行くには少し時間が押して来ているので、加治木から国分まで東九州道で国分まで走り、国分の城山公園は行かず、そのまま国道220号線を南下した。この国道は桜島を眺めながら走れる快走路で、特に早崎やかつては岬だったはずの戸柱鼻の辺りは、眼前に桜島が迫って迫力のある景色が広がる。桜島を1周したい誘惑を抑えながら、方向を変えて南へ少し行くと垂水市街に入ってくるが、ここにも垂水城と呼ばれるがあったはずだ。ただ、地図上には本城や猿ヶ城、高城、下水城という地名があるものの、現地には案内板の類は見つからなかった為、散策を断念して先を急いだ。 国道220号線から県道68号線を経由して国道269号線に入り、どんどん南下していくと、岬に近付くにつれてだんだんと風が強くなってきた。青森の竜飛崎もそうだったが、先端というのは風が強い。だだ、景色は日本海の厳しい自然を感じさせる竜飛崎とは180度違って、どこか南国情緒が漂っている。そんな景色を楽しみつつも、竜飛崎ぐらいの風力やったらちょっと嫌やなと思いながら佐多町までくると、やはり風がきつい。でも、佐多岬は今回のツーリングの目標でもあったので、腹をくくって佐多岬ロードパークウェイへと入った。 この道は、リアス式海岸のような半島の先端を曲がりくねって通っているので、竜飛崎のように常に横風が吹き付けるわけではなく、山の陰に入れば快適なワインディングが楽しめる。途中、ヘアピンで一瞬視界が広がって突風に煽られ、必要以上にバイクを倒し込まれた時は危なかったが、それ以外は舗装状態が少し悪いのを除いて、なかなか快適に走ることができた。有料道路を最後まで行くと、やや広い駐車場があり、そこから岬の突端までは徒歩で行くことになる。100mもない暗いトンネルを抜け、更に神社を過ぎてジャングルのような植物の間を抜ける山道のような遊歩道を歩いて行くと、やや大きな展望台があった。どうやら周辺の店は移転したらしく、人っ気はあまりなかったが、展望台からの景色は270度のパノラマが広がって素晴らしく、しかも強風で建物が揺れていたので、より自然の圧倒的な大きさを感じさせてくれた。 佐多岬からのロードパークウェイを戻る途中、道の真ん中で遊んでいる猿達を止むを得ず追い散らし、有料道路の終端では来た道と逆の右に折れて北へと戻って行く。佐多岬という最大の目標は達成したが、肝付氏の本城であった高山城もせっかくだから行っておきたい。 県道74号線で2000mileを達成し、そのまま淡々と北へ進んでいくが、この辺りは丘とも山とも言い難い丘陵地帯で、2車線もしくは1.5車線の道路が続き、アップダウンやコーナーが連続していて飽きさせない。そんな道を走り続けた後、吾平から東に折れて高山城を目指したが、途中で県道かと疑うほどの、1車線あるかないかという道に入った。最初は道を間違えたかと思って入口で引き返したが、地図を見直してもこの道しか県道と思われる道は無い。高山城に行くにはこの道しかないので、危険を感じながらも仕方なく先へ進んで行くと、再び県道らしい広い道になり、やがて高山城の城址碑が見えた。だが、城址碑は平坦な道路沿いにあり、大きな山城だったはずの高山城の中心であるはずがない。陽が沈んで薄暗くなっている中、城の入口を探して周囲を軽く散策してみたが、残念ながらそれらしい場所には出会えなかったので、また来る事を心に誓いつつ、高山城を後にした。 すでに陽は落ちてしまってどんどんと暗くなっていく中、高山町を縦断して国道220号線に戻り、適当に見つけた電話ボックスで宿を探してみると、志布志の民宿でなんとか予約が取れた。とりあえず寝床は確保できたので、あとは適当に晩飯をカッ喰らうだけだ。バイクの進路を東へと変え、志布志なら何かあるやろうと志布志の市街地に突入すると、例の如くJoyfullを発見した。もうメニューに飽きたんやけどなと思いながらJoyfullに入って晩飯を注文し、ご飯を食べながら、鹿児島の黎明館で模型があった志布志内城に明日朝一で行ってやろうと思って地図で探してみたが、残念ながら地図にはそれらしい地名がなかった。 予約した民宿は運良くJoyfullのすぐ近くにあったので、今回は迷うことなくチェックインしたが、ここも100円テレビの民宿だった。今時100円で見るテレビはそうないと思っていたが、青森や鹿児島といった端ではまだまだ現役らしい。いつもなら100円使うのもアホらしいので見ないのだが、ここのテレビは民宿にありがちな14インチの小さいやつではなく、20インチぐらいの真新しいやつだったので、どんなもんか見てみたろと思って財布を開けると、そこに100円玉の姿はなかった。前日といい、今回といい、どうやら100円テレビに自分のお金を入れるのは神様が許さないらしい。ポリシーを貫けってことか。 |
|
| 走行距離 311.52km |
|
| 11/7 朝、出発する時、女将さんとおばあさんが見送ってくれたが、よく見ると民宿と手芸店が一緒になっている。暖機している間、おばあさんや女将さんと雑談したが、すごく人当たりが良くていい人達だった。宿の設備はいかにも民宿という感じで、廊下や風呂も狭かったが、昨日もいろいろと気を使ってもらい、清々しい気分で出発できた。 志布志というのは鹿児島の東の端に当たるので、国道を東へ行けばすぐに宮崎県になる。都井岬はスルーして、途中コンビニで朝食を挟みながら国道220号線で南郷まで行き、県道でショートカットして日南の中心部から再び国道220号線に入り、飫肥城へと到着した。 飫肥は、江戸時代は飫肥藩として伊東家が治めていたが、もともとは島津一族の領地として有力庶族の新納氏や島津豊州家が入部していたところで、それ以前は土持氏などがいたらしい。戦国時代には島津氏と伊東氏による争奪戦が延々と続き、伊東氏が全盛期に奪ったが、すぐに没落して島津氏が奪い返し、秀吉による九州征伐以降は再び伊東氏の領地となった。このへんの歴史はちょっとややこしいが、今では小京都と呼ばれる優美な街並みと、涼やかな用水路が印象的な街で、どこか島根の津和野と似ている。中心にあるお城は、当時のものとしては石垣が残っているのみで、学校の敷地になっていたりするが、大手門や書院が復元されており、小さいながらも飫肥藩伊東氏に関する歴史資料館などがあった。まだ朝早かったので観光客の姿はまばらだったが、小村記念館を回って出てくると、ぼちぼちうるさいおばちゃん達が登場してきていた。観光都市としては、おばちゃんが来ないことには成り立たんやろうから、ぼちぼちの人気であるらしい。 飫肥からは国道222号線の飫肥街道を都城へと進む。飫肥を出てすぐ山へと入って行くのだが、なかなか道が広くワインディングが楽しめる。ここしばらくワインディングできるような道を通っていなかったので、久しぶりに乗れてるという感じだ。しかし、今ではこのような整備された道になっているが、昔はかなりの難所ではなかったかと思われる。これだけ山ばっかりが続くと、人の足では相当に辛かったろう。そう思いつつ、スイスイと文明の利器の恩恵を受けて走っていると、突如一昔前の道のような旧道になってしまった。地図をよく見ると、点線で牛之峠バイパスと書かれている。どうやら道は整備されている途中らしい。 谷筋を走るような感じで小一時間走っていると、ようやく平坦な市街地へと下りてきた。ここが都城だ。ここは城山公園というのがあって城の位置が分かりやすいが、とりあえず駅で案内板を確認する事にして駅へと向かうと、自分の想像していたよりもだいぶ小さい街であることが分かってきた。小さい頃に都城行きの特急電車があるというのを知っていて、特急が止まるということは結構大きな街やという勝手なイメージがあったが、実際の都城はビルも多くなく、空が広くて視界が開けている。 まぁ、それは置いておくとして、しばらく駅で休憩を入れた後、JRの線路沿いにぽっこりと膨らんでいるところが城山公園のようなので、それを目印に走っていく。市内は車通りが少なく、天気も良くてなかなか気持ちがいい。少し西に走って線路の下をくぐると、城山公園の駐車場へと着いた。なかなか大きな門が構えられて、結構整備された公園のようだ。公園内には、江戸時代初期まで城が存続したこともあって、郭や堀切が分かりやすい形で残っているが、当時は日豊本線を挟んだ向かいにも郭が続いていたらしく、なかなか大きな城だ。もともと都城という名前も、この都之城という城の名前から来たもので、かなり昔からこの盆地の中心として城があったらしい。線路によって分断されているのが惜しいが、当時の城主居館があった場所には2階建ての歴史資料館が建ち、天守閣のような華美さはないが、実用的な感じで風景に馴染んでいる。 都城からは北上して小林へと向かう。小林は高校駅伝で昔よく見かけた為か、馴染みがあるのでなんとなく寄ってみたかった。都之城には12の支城があったということが都城歴史資料館にあったが、場所がはっきりしている高城はちょっと遠回りになるので敬遠し、真っすぐ北へ上がって小林への途中にある山田町の山田城に少し寄ってみることにした。だが、マイナーな城にありがちなように、山田町に入っても城跡に関する案内の類がない。軽くありそうなところを回ってみたが、恐らく中学校か役所の辺りだろうという予測はつくものの、もともとがついでにという感じなのでそんなに詳しく探してみる気にもならず、そのまま小林へと向かった。 山田町から更に北上し、国道221号線で今度は西へと向かう。しばらく行くと道は再び北へと折れ、左手に遠く霧島の山並みを見ながら10kmほど走ると小林市街に到着するが、この市街地から少し北に入ったところに目的の小林城がある。ここ一帯はその昔、真幸院と呼ばれ、北原氏という豪族が市街地の南側にあった三之山とも三ツ山とも呼ばれる城を中心に治めていたが、その没落後は伊東氏と島津氏の最前線となり、小林城もその為に伊東氏によって築城された。城跡には遺構がよく残っており、規模としては大きくはないもののよくまとまっている印象で、築城後すぐに島津氏の攻撃を撃退していることから防御力もあり、木崎原の合戦でも出撃拠点として使われたように重要な城であったはずだが、伊東氏の凋落によって最後は島津氏に明け渡されたらしい。そういう意味では伊東氏の勢力を象徴するような城とも言えるだろうか。 小林のJoyfullで飯を食べ、今度は268号線で東に向かい、宮崎方面へと走る。ただ、昔の宮崎には城があったはずだが、地図上では跡形も無さそうだったので、わざわざ交通量の多い市街地に行く理由もないなと思い、宮崎を迂回しつつ高岡の天ヶ城を目指していると、国道10号線と合流するあたりで渋滞となった。国道10号線はそんなに交通量が多いのかと思っていると、なんと対向車線を人が走っている。しかも白バイに先導されて。こんなアップダウンのある山の中でもマラソンするんやねと感心した。 高岡の天ヶ城は公園として綺麗に整備されていて、大きな天守閣もあるが、もともと戦国時代には高岡城とも内山城とも呼ばれた高岡の治所があり、関ヶ原後に天ヶ城として整備された時は、領境の城として軍事色の濃い城だったはずだ。このあたり、関ヶ原で西軍に付きつつも減封すらされずに生き残ったという島津氏の、徳川氏に恭順の意を示しつつ軍事的な準備も見せつけるという政治的な駆け引きから具現化した城とも言えるが、元和の一国一城令で廃城となり、残念ながら当時の遺構はほとんど見当たらない。とりあえず天守閣を兼ねた資料館に寄ってみようと思ったが、係員がいない上、それほど歴史的な展示でもなさそうだったので、パンフレットだけ貰って立ち去った。 天ヶ城から、つい先ほどランナーが走っていた国道10号線を戻り、県道358号線で北上して綾城に向かう。麓から見ると、この綾城には立派な焼板っぽい建物がそびえたっている。天ヶ城の白亜の天守よりもはるかに中世の色が濃く、これは少し期待できそうだ。 谷筋を遡って城の向かいの台地にある駐車場にバイクを止め、長い吊り橋渡ると城に着く。何やら工事をしているようだが、問題なく入れるようだ。中にはクラフト館があり、いろいろ展示や販売もしていたが、そのまま素通りして奥へと進むと、あの無骨な建物がある。これは戦国中期の望楼型の建物を復元したもので、もともと綾城にあったものを復元したわけではないが、当時日本に存在したと考えられている城郭建築物を再現したもので、リアリティーがあってなかなか良い。同じ模擬天守でも、江戸時代にそこには無かったはずの近世風天守閣を観光の為だけに建てるよりは、あってもおかしくないというリアリティーの分だけはるかに城として生きているし、また木造というのがなお良い。ただ、中は伊東氏関係の展示がしてあり、展示物の器として木造というのは管理が大変かなというのは思ったが、訪れる人間としては冷たい鉄筋コンクリートよりも愛着が持てるし、山の突端に建っている望楼からの眺めも非常に素晴らしく、良い印象が強く残った城だった。 綾城からは県道を駆使して北上し、都於郡城に向かう。しかし、久留米でオイル交換をした時に、バイク屋の店員が宮崎は何にもないからあまりお勧めしないですと言った通り、今日は城以外どこにも寄っていない。唯一飫肥が観光地っぽかっただけで、これで城に興味ない人やったらほんまに何にもないところやね。 都於郡城は西都市街の南7kmほどの所にあるが、戦国時代は日向を支配していた伊東氏の本拠地だった。残っている遺構は、日向の国主と呼ばれた当時の伊東氏の勢いが感じられるほど大きな規模を持ち、当時は相応の城下町もあったはずだが、今では全くの田舎となってしまっている。だが、そのおかげで都市化せずに城の遺構が残っているからありがたいし、何よりもやっぱり田舎にこそ古城は似合う。夕焼けが近い時間だったせいか実に情景に趣があって、そのまま日暮れまで過したいぐらいだった。公園としてもしっかり整備されているので、今度来た時は自転車なんかでブラっと回ってみるのもいいかもしれない。 都於郡の次は、これまた伊東氏が都於郡から本拠を移した佐土原へと向かう。地図上に佐土原城の字が見当たらなかったので、1度東に進んで佐土原駅で案内板を確認したが、そこにも城は記されていなかった。地図や道路の案内に鶴松館というのがあり、佐土原町のなかでもまさに佐土原という地名のところにあるので、そこに行けば何か手がかりがあると思って行ってみると、やはりそこが佐土原城だった。だが、ここも都於郡と同じく、伊東氏が造営したという小京都とさえ呼ばれた街並みは無く、ただの田舎と化している。 鶴松館は江戸時代の佐土原藩の藩主居館で、その後背の山に戦国から江戸初期にかけて存在した佐土原城の遺構が残っているらしいが、時間が5時を過ぎていたので鶴松館は閉まっており、登山道も現地の案内板では建物のすぐ脇から出ている感じだったので、入れなさそうだった。恐らく他にも城に登る道はあるはずが、日暮れも近い時間ではどうにもならず、登城は断念した。 ボチボチ日が暮れてきたので、鶴松館の駐車場の電話ボックスから宿を探すと、ほど近い高鍋に予約が取れた。しかも、昨日泊まった宿と同じ名前で、つるみ旅館というところだったが、こちらはひらがなで書くらしい。 まぁ、とりあえず宿は取れたので、着替えも使い切っていることやし、西都あたりならコインランドリーがあるかなと思って西都市街に入ると、予想通りコインランドリーがあった。着替えは着ているのを除いて4組持って来ているが、残りの行程を考えると、あと4日ぐらいで帰り着くぐらいだろうか。そう考えると今日が洗濯のベストタイミング。もし行程が1日延びたら、もう洗濯せずにお古を着たらいいか。帰り着く日の1日ぐらいどうってことないやろう。 洗濯を終え、おなじみというか既に飽きた感のあるJoyfullで夕食を済ませ、少し迷って宿に着いたのは8時を過ぎていた。ここはご飯屋さん兼民宿のところだったが、なかなかおしゃれっぽい洋食屋さんだった。案内されるまま、駐車場が結構深い砂利だったので倒さないように必死になりながらバイクを止め、部屋に入ってみると、少し狭い部屋だったが1人だとちょうど良い感じだ。荷物を適当に置き、風呂が今ならあいているとのことだったのでそのまま風呂に直行すると、どうやら1番風呂のようで、湯船も広くじっくりゆっくりとつかることができた。 |
|
| 走行距離 270.40km |
|
| 11/8 この日の朝は、いつものように7時過ぎに起床し、8時前には出発した。 最初に行くのは、この城下町高鍋の中心である高鍋城だ。高鍋は昔、財部という地名だったらしく、秀吉の九州征伐で秋月から秋月氏が移されて地名を高鍋に直したらしい。そういえば秋月や益富城で、そんな説明があったのを覚えている。秋月氏は江戸時代もこの高鍋の領主であり続け、いまでも城下町という趣はしっかりと街並みに残っており、じっくり散策しても楽しめそうなところだ。 高鍋城を散策してバイクに戻ると、現場に出発する前と思われる土建屋のおっちゃんが声を掛けてきたので、今日は大分まで行くというと、混むから早よ行きやという感じで送り出された。資料館が公園にあり、館の開く9時まで待とうかちょっと迷っていたので、出発するにはいいきっかけになったかも知れん。 高鍋には小丸川という川が流れ込んでいるが、それを少し遡ると高城という城がある。宮崎にはいくつか高城というのがあるが、ここはその中でも一番全国的に知られている城。なぜかというと、耳川の合戦と秀吉の九州征伐で戦場となった場所だからで、しかもその両方の大きな戦いで落城しなかったという堅城だ。最初高鍋から県道19号線で行くつもりだったが、小丸大橋で曲がるのを忘れてしまったので、名もなき市道から城へと向かった。城は公園となっていて、バイクを麓に止めて登ってみたが、断崖と言っていいほどのかなりの勾配を持つ小山にあって、自然の要害となっている。だが、そんな急峻な山容でも頂上の郭は結構広く、500人が籠ったといわれる合戦では、人数的にもかなり有効に機能したんだろう。急峻な地形と城の規模に合った人数、そして旺盛な士気というのが堅城の条件になるというのは、この城の歴史が物語っている。 高城のある木城を出てからは北へ北へとバイクを走らせ、国道10号線に入って時折日向灘を眺めながら更に北へと進むが、しばらくは何もない。美々津や日向市街にはそれなりに何かありそうだが、地図上にも道路の案内にもそそられる場所がなかったのでそのまま淡々と通過し、延岡まで突っ切った。 延岡は昔、県という字を書いてアガタと呼ばれていて、市街の外れにある延岡城も県城と呼ばれていた。もしその県という名前のまま明治になって県になったら、県県になるんやなあと薄ぼんやりしょうもないことを考えながら、右手に工業地帯を眺めつつ市街に入って城に到着した。城に入ってまず出迎えるのは千人殺しという高石垣で、これはある一部分の石を抜くと石垣が崩れ落ちて下の敵軍を皆殺しにできるという代物だが、実際にどうやるかは分かっていない。下から見ると確かに迫力があり、この石垣を崩されたらひとたまりもないなと思いつつ、崩れた後は防御力ガタ落ちやなとも思った。一時的に敵を城から遠ざけても根本的な撃退にはならないと思われる伝承だが、防御の為にありとあらゆる事に知恵を絞った当時の努力が垣間見える。 千人殺しの石垣を過ぎて城を登っていくと、本丸付近の石垣が分解されていた。どうやら発掘作業の真っ最中らしく、3人ぐらいのおじさんとおばさんが本丸で作業していたので、邪魔をしないように適当に写真を撮り、城を後にした。 城を出て国道に戻ろうとすると、城のすぐ横に高校があって、どこか課外授業に行っていたのかぞろぞろと生徒達が学校に帰って来ていたが、こやつらの中には城でサボるやつが多分おるんやろなと考えたら、学生時代を思い出して懐かしかった。自分が行っていた学校でも、近くの古墳公園でサボってる奴はおったし、山形の新庄でも、朝っぱらから城跡でサボっている奴らに、先生が自転車で回りながら学校行きなさいと言ってたし、日本全国でそんなに変わらん風景なんやろね。 延岡から北へと進むと、国道10号線は山に入っていく。昔は日向と豊後の国境で、今は宮崎と大分の県境に跨る山地帯はなかなか深い。北川沿いから宗太郎越えと呼ばれる昔の難所を越え、コーナーの多い道をスイスイと走っていったが、途中で何箇所か工事があり、遅い車をそこでパスして先頭に立てたので、かなり快調に走れた。大動脈の国道10号線とは言えども、この辺りは交通量も少なくてなかなか良い道だ。 延々と山の中を走る事、1時間強。久々の市街地である佐伯に到着した。とりあえず昼を過ぎていたので、いつものようにファミレスのJoyfullで適当に昼飯を済ませ、市街地にある佐伯城へと向かった。佐伯城は近くの栂牟礼城を廃城にして築かれた城で、わざわざ播州から石垣積みの職人を連れてきて、山頂に石垣を組ませたという。しかし、山上の建物は早くに焼失し、麓に三ノ丸を新たに造営して藩政の中心としたらしい。今でも三ノ丸の櫓門が、頂上には石垣が状態良く残っており、頂上では小学生が写生大会をしていた。こんな秋晴れの天気の日なら写生のし甲斐があるやろうけど、どっちか言うたら太陽の下で体を動かして遊びたいんちゃうかなと思いながら城の石垣を見て回り、山から下りてくると、今度は麓で体育の授業なのか、中学生がマラソンをしていた。そういえばもう11月に入っている。熊本で失った冬用のグローブが恋しい。 佐伯の市街地から西に外れた所に、栂牟礼城がある。九州征伐直前、怒涛の勢いで北上する島津軍の攻撃でも落ちなかった天険で、久々の本格山城だ。上の方まで車道が付いていれば楽だったが、たまには歩いて登れと言わんばかりに登山道が整備されていたので、気合を入れて山に入った。この栂牟礼山は、地質の関係なのか礫質の土壌が多く、登山道も土というより、小石がたくさん敷き詰められているような感じだ。1歩踏みしめると小石がコロのようにクルリと転がるので、足元が非常によく滑り、踏ん張りがきかないし、力のロスも多い。山が急峻な上にこんなにロスが多いと、かなり難渋するだろうと中腹で思ったが、予想通り頂上に着く頃には息も絶え絶えになっていた。頂上の小さな祠にお参りし、景色を見ながら一服していると、涼やかな風が吹き抜けていった。この充実感と気持ち良さが登山の醍醐味なんやろなと思いつつも、城の遺構がそれほどはっきりと残っていなかったのは少し残念だった。 栂牟礼山を下り、再び山へと入っていく国道10号線に戻って、野津町から国道502号線へと折れ、荒城の月で有名な竹田の岡城を目指す。交通量の多くなってくる時間となって、流れの速くない国道を西進し、岡城へと入ったが、この岡城は建物の無い城には珍しく、入場料が要る。特に建物も無いのに入場料を取るのはどうも納得がいかないが、貰えるパンフレットが巻物のような形をしているのでなんだかちょっと得した気分になる。なかなか商売上手だ。 大手門の階段から城跡に入ると、そこには壮大な石垣群が広がっていた。島津軍の北上の時も持ちこたえたという元々の主城部を中心として増築し、重臣の屋敷も包含した城域は広大で、しかもそれが山上に展開されているのは感動に値する。山上の台地に築かれていて、平坦な部分が取り易いという地形ではあるが、それを石垣を使ってここまで広げたというのは凄い。ただ、この城で籠城しようとすると、広さに対応した相応の兵力が要るので、食料の備蓄なども考えると、もう少し小規模の城、つまり実際に籠城戦を耐えた元の主郭部ぐらいの大きさのほうが籠城には向いているのかも知れない。 岡城の最後に、城跡に佇む滝廉太郎の銅像を写真に収め、竹田から国道57号線を東進し、国道10号線と合流してからは再び北上していく。時間は夕暮れ近くとなり、そろそろ日が沈むという明るさになっているが、看板1つしか建っていなかった戸次川の古戦場と、少し離れた丘陵にある長宗我部信親の墓を見て回った。長宗我部信親の墓には鉄の鳥居があり、そうとう古い感じだったが、他にも建てられて間もないような新しい碑などもあり、まだ艶のある新しい石に森鴎外の詩が刻み込まれていた。また、隣には同じく戸次川の合戦で全滅した十河一族の慰霊碑があり、こちらにも十河氏の末裔の方々が建立したという旨の言葉が彫られている。もともと長宗我部元親が好きで、地図上にその嫡男だった長宗我部信親の墓という字を見つけてここに来たのだが、その元親と熾烈な戦いを繰り広げた十河氏が、敵であった元親の嫡子と並んで祀られているというのは、歴史の皮肉を感じずにはいられない。だが、道路から少し離れた喧騒のない場所で感じる夕暮れの時間というのは、そのような歴史の滑稽さも押し流してしまうほどの、静かな時に包まれるような感覚を紡ぎ出し、なんとも言えない厳かな気持ちでお参りすることができた。 400年前に戦場となった戸次付近は既に大分市になっているので、ここから北上すれば、今日宿泊予定の敷戸にある大分湯遊ランドという健康ランドまではもうすぐのはずだが、国道10号線は渋滞が激しく、なかなか時間が経っても進んで行かない。そうこうしているうちにだんだんと日が暮れて暗くなってきたが、どうも前の車に反射するヘッドライトの明かりが暗い。熊本で2灯の内の1灯が切れているのを確認したが、ここに来てついにもう1灯も切れたかと、道の脇にそれて確認してみると、やはりスモールライトしか点いていない。今日はもう宿まで目前だからいいとしても、日暮れが早くなっているのにヘッドライト無しじゃさすがに辛い。ということは、途中で直すか、朝早く出発するかどちらかだが、好みのバルブがあるような大きなバイクショップはあんまりないし、かといって朝早いのも夏用のグローブしかない身としては寒くて辛いしなと、しばらく迷っていたが、どのみち明日の朝は早く起きるはずだから、明日1日様子を見てみる事にした。 薄暮の中、渋滞を掻き分けて健康ランドに到着し、とりあえず暖を取る為に風呂へと入ったが、なんと風呂には自分ともう1人おじさんがいるだけで、ほぼ貸し切り状態だった。平日や言うても、こんなんで儲かってんのかと思いながら大広間に行ってみると、なんと大衆演劇を上演していて、ここに人が集中している。しかも客はジジババばっかり。 大衆演劇の音がうるさい中、さっさとご飯を済ませ、2階へ上がるとテレビが見放題だった。しばらくテレビを見ていると、大衆演劇が終わったのか、ジジババが一斉に上がってきて、自分らの部屋へと帰っていった。どうやら老人向けのパックがあるらしく、今日はそれでジジババだらけだったようだ。しかし、幸いにも仮眠室で寝る人が少ないようなので、今日は場所取りに苦労する事もなさそうだ。明日も早いし、早々に寝る事にしよう。 |
|
| 走行距離 258.72km |
|
| 11/9 朝、6時半に起床し、回りを見るとやはり4、5人しか仮眠室で寝ていない。前夜はおっちゃんのイビキで起きる事もなく、なかなかぐっすりと眠れた。窓から外を見ると、空は真っ青で秋晴れの快晴のようだ。目を覚ます為に朝風呂に入り、7時過ぎに荷物をまとめて出発した。 とりあえず高速で東の海岸沿いへ出ようと思い、大分光吉I.C.に行ってみると、なんとそこは西行き専用のI.C.で、ここから東へは行けなかった。おいおい、せっかく早よ起きたのに意味ないやんと思いつつ、地図でルートを確認する為にコンビニに寄り、ついでに朝飯を掻き込んだ。この時点で7時40分を過ぎ、いつもの出発と大して変わらなくなってしまった。 東行きの高速のI.C.は、最も近いのが大分米良I.C.だったが、直通でいける道は無いので、北か南に迂回しなければならない。近いのは北だが、道が多く迷う危険もあったので、国道10号線を南へと戻り、大分南バイパスで大分米良I.C.に向かうことにした。ここにも城があったんやろなと思いながら古城山トンネルを過ぎて大分米良I.C.に着く頃には8時を過ぎようとしていた。大分米良I.C.から山を越えて大分宮河内I.C.まで走ると、吹き付ける風の寒さで手の感覚が無くなったが、どう足掻いても夏用のグローブしか出てこないので、心頭滅却すれば火もまた涼しの心境で開き直り、そのまま休憩も入れず県道21号線で峠を越えた。末広川沿いにまで下ってくると、臼杵市街に入ってようやく手に少し暖かみを感じるぐらいになり、周辺もちょっと都会になってきたが、8時半というラッシュの最後の時間帯ぐらいだったので、当然のように少し渋滞に巻き込まれる。その遅々とした流れの中、それほど大きくない市街地を抜けて海のほうへ進んで行くと、その昔は丹生嶋城と呼ばれて小島がそのまま城となっていた、今日の第1目標である臼杵城に着いた。 臼杵城には櫓などが少し残っているが、今見る限りでは、昔は島だったという感じはなく、完全に地続きになっている。その昔は、干潮時に砂州で繋がるだけだったらしいが、江戸時代に城を拡張した時、新たな城の用地として島との間にあった海はほとんど埋め立てられたらしい。城内は公園になっていて、石垣や堀切が明確に残っているので、なかなか散策しても面白かったが、それよりも、マイクラブを持ってやたら集まってきている老人達の、グランドゴルフをしている姿が印象に残った。九州では、グランドゴルフが老人達の中で流行っているらしい。 臼杵からは、国道217号線を北上して海岸伝いにしばらく行くと、佐賀関へと到着する。佐賀関は関アジや関サバのような海産物で有名だが、佐賀関港の周辺は大きな工場があって、思い浮かべていたイメージとは異なっていた。だが、更に奥に進んで先端の関崎の所まで来るとイメージに近くなり、海に張り出した崖に灯台があって、その向こうには豊後水道を介し高島や四国の佐田岬が見える。なんとなく崖のてっぺんにある海星館には行く気がしなかったが、少し下ったところにある無料の展望台から海を眺めると、ちょうど1年前は向こう側の岬に居たんやなと思い出しながら、吹き上げる風が気持ちよかった。ただ、灯台は海星館から行けるらしいので、辿り着く事はできなかった。 佐賀関から国道197号線を西へと進むと、ほどなく大分市街へと入ってくる。さすがに大分まで北上してくると交通量が多くなるが、それほど車の流れは悪くない。その流れに任せて大分市役所と大分県庁を目指して進み、市街地のど真ん中にある江戸時代の府内城や、恐らくその周辺にあると思われる大友氏の館跡を探す。もうちょっと事前に予習して来いよとひとりでツッコミながら、これもひとつの楽しみやしなぁと標識に目を凝らしていると、大友館に関する案内は皆無で見付けられないまま、府内城跡の公園が見えてきた。国道から急いで右折して適当にバイクを止め、府内城の散策を開始すると、敷地には文化会館が建てられ、内堀より外の部分は完全に市街化してしまっていて、どちらかと言えば城のほうが肩身が狭そうな感じだ。昔は北に繋がっていたという海も、天守台の石垣から見てみても、その面影すらない。ただ、当時から残る2棟の櫓を中心として、復元された隅櫓や多聞櫓門などがあり、天守台から櫓や本丸の部分を覗くと、そこだけは結構城といった雰囲気を残している。 府内城から元の国道197号線を更に西に進み、東九州の大動脈である国道10号線に合流して別府湾を右手に進んで行くと、高崎山というのがある。その麓にある、臨時駐車場みたいな閉鎖されている駐車場に入り込んで地図を確認していたが、今では猿の天国となっている高崎山も、戦国時代には大友氏が館の詰として城を築いていたらしい。高崎山という名前だけは知っていたが、他に同じような場所がないし、たぶんここだろう。しかし、今では公園となってしまっているので、城が公園の外にあれば他に登る道があるはずだが、もし公園内にあった場合は猿に興味がないのに入場料を払わなくてはならない。しかも100%あるという確信もないのに。そう考えると、わざわざ山を登って城跡を確認する事も無駄っぽいので、広い駐車場で意味もなくグルグルと回転して、しばらくバイクを倒す練習をしてから出発した。 別府辺りの国道10号線は、車線が多いもののさすがに渋滞がひどい。これは工事で車線が減っている為だろう。もう数km行けば、国東半島へ向かう道が国道10号線と分かれるので、少しの辛抱だ。 別府湾をグルリと回って日出まで行くと、国道10号線は国東半島回りの国道213号線と分かれる。国東半島1周が今日の目標ではあったが、ここはどちらの国道へも行かずに、日出の市街へ入っていって暘谷城ともよばれる日出城を目指す。ここは城よりも、城の下に湧き出る清水で育った城下カレイが有名で、昔は獲れる量も少なかったので殿様しか食べれなかったらしいが、今は観光客に人気がある。だが、今の自分には城のほうが大事だ。だいたい観光客向けの料理というのは、素材が有名なものでもあまり特別美味しいと思ったことがない。そこそこ美味しいのは美味しいが、多分地元の人が足を運んで食べに行く店のほうが安くて美味しいはずだ。だが、そんな情報を得る為にブラブラする気は毛頭ないので、結果的には名産品はほとんど食べずにここまで旅してきた。今はまだ食事に関しては質よりも量が欲しいので、名産の食べ歩きの旅はもっと年とってからになるやろね。 日出市街の細い道を抜けて国道213号線に入り、国東半島を1周するため東へと向かう。日出の隣は杵築だが、少し内陸を走って再び海沿いに出る辺りの杵築の市街地にもかつては城があった。国道にたまたま出ていた案内をもとに市街地の方へ入っていったが、市街地の細い道を迷いながらようやく辿り着いたところは城ではなかった。ぽっかりとした台地があったので登ってみたのだが、そこから見えたのは豊後水道の海と、そこに突き出した台地にある杵築城だった。景色はかなり良かったが、迷ってウロウロとした15分は全く無駄だったわけだ。 気を取り直して国道に戻り、城の建っていた方向目指して進んでいくと、観光バスが止まっている駐車場があり、そこから台上の城へ登っていける道があった。最初の案内に惑わされたが、国道を真っすぐ行っていたほうが遥かに分かりやすかったらしい。バイクを適当に止めてテクテク徒歩で登っていくと、整備された公園があり、その奥に天守閣があった。中は資料館となっていたが、ここは近くで見るよりも、遠くから海や空の青と白壁のコントラストで眺めるほうが美しい。そう考えると、ちょっと遠くから眺めることができたあの時間は無駄にはならなかったんやね。 杵築で昼飯を済ませ、海岸沿いを東へ進んで行くと、いよいよ本格的に国東半島1周の旅路となる。国東半島のほとんど先っぽには大分空港があるので、そこまでは空港アクセスのために道がかなり良く、そこを過ぎるとただの2車線国道になってしまうものの、交通量自体が少ないので、時々遅い車に引っ掛かってしまう時以外は基本的に快走路だ。しかし、空港が市街からこんなに離れてるんやったら、ちょっと利用しにくいんとちゃうかな。 そこそこコーナーがあり、時々海が視界に入ってくる道を2時間以上淡々と走り、宇佐のほうへ入って行く時には、国東半島に入った時の青空は姿を消し、雨雲が空のほとんどを占めていた。宇佐には全国の八幡神社の大本である宇佐八幡神宮があるが、この天気で先を急がなくてはならないのでスルーする事にした。しかし、こんな近畿から見れば片田舎の神社が、大和朝廷で大事にされて全国に広まったというのには少しびっくりする。もともと日本の他の神様は物言わぬ事が多いのに対し、この宇佐の神様は政治に神託を出すことが多かったので、為政者に大事されたらしいが、それでも全国どこに行っても八幡神社というのはあるから、その広がりようはただ事ではない。神様の中でも日本の為政者や民衆に愛された神様やね。 海沿いの県道23号線を進んで行くと、ようやく大分の端、中津に到着した。中津市に入る頃、かなり暗くなっていた空から雨が降り出してきたので、カメラの電池を買うのと雨宿りを兼ねて近くの電気屋に入ったが、しばらくしても雨が止まないので、カッパを着つつ覚悟を決めて出発した。 中津の旧市街の細い道を辿って福沢諭吉の旧居に立ち寄ったが、この辺りは道が広がっている部分はあるものの、昔の城下町の骨格を色濃く残した町並みになっていて雰囲気がある。ただ、旧道は幅が異様に狭いだけに、車でブラブラするのは辛いだろう。 相変わらず雨が降る中、福沢諭吉の旧宅を出発し、今度はお目当ての中津城を目指す。中津の市街からは天守閣が見えるので、その方向へと走っていたが、迷った挙句、一旦海まで出てしまい、ずぶ濡れになりながら戻ってくると、運良く城に辿り着くことができた。 中津城は黒田官兵衛が築いた城で、日本三大水城らしいが、現在残っているのは内堀より内側の部分だけで、鉄筋コンクリート製の天守閣も後から新たに造られたものらしい。城跡は神社になっているが、その他は特にこれといったものはない。城跡としては寂しいが、野面積や打ち込みハギの石垣は美しく、黒壁の模擬天守は城跡に非常に映えていた。いかにも造りましたよっていうのではなく、こんな雰囲気がある模擬天守なら、新たに建てられたものでも許せてしまう気がする。 雨が止まぬまま中津を後にし、県道113号線から国道10号線に戻って北西へと走っていく。中津城を築城する時に城井谷崩れという悲劇があったと伝えられているが、その城井という豪族が本拠とした城井谷城はこの近くにある。また、豊前市には城山公園というものもあるが、この天候では恐らくロクに散策もできないと思われるので、それらはまたの機会に訪れるということにして先を急ぐと、行橋辺りから交通量が段々と多くなり、やがてトラックやトレーラーといった大型車の割合が増えて一層うっとうしくなった。幸い雨は止んできたのでコンディションは多少良くなったが、まだまだ黒い雲が空に横たわっているので油断はできない。 北九州市に入る頃には、国道10号線の交通量とぐずついた天気でクタクタになっていたので、門司に行く気力は既に無くなっていた。神戸から小倉までフェリーがあることやし、小倉までそれで来て、豊前を色々見て佐賀関から四国に渡るのもいいかもしれんと自分を納得させ、門司の観光をパスして小倉東I.C.から九州道へと入った。本州から九州に渡るときはトンネルだったので帰りは橋で行こうと思っていたが、どのみち高速に乗らなあかんからちょうど都合も良い。 高速で門司を過ぎるまでに陽は沈み、関門橋を渡るときには天候の悪さも手伝って既に薄闇となっていた。お陰で海峡の夜景を見ることができたのだが、ここは1番短いところで1kmを切る長さしかない海峡なので、見ている時間はかなり短かった。明石海峡大橋でも短いなと感じたが、ここはその3分の1もなく、まさにあっという間だ。 高速を下関I.C.で下りると、2週間ほど前にも通った景色が広がっている。今日の宿は、下関まで行けそうになった時から行きに泊まった浦島旅館と決めていたので、市街地まで下ってから2週間ほど前に泊まった者ですがと電話すると、女将さんも覚えてくれていてすぐに予約が取れた。1度行った場所なら迷う事もない。スイスイと辿り着き、また例の如く外で弁当を買ってきて食べた。 いよいよ九州も脱出し、残りの日程も少ない。明日からは山陽路になるし、ヘッドライトの無いマシンでは早起きしなくてはならないので、この日も早く就寝した。 |
|
| 走行距離 323.68km |
|
| 11/10 この日の起床は7時前。身だしなみを整え、7時20分頃出発して国道9号線を東へと向かう。とりあえず目指すのは、壇ノ浦の古戦場と櫛崎城だ。 壇ノ浦の合戦は、時間と潮の関係でほぼ関門海峡全体が戦場となったので、古戦場というとすなわちこの海峡全体のことになるが、古戦場碑が建っているのは国道9号線沿いの関門橋の真下である。この橋が架かっている場所は海峡の最も狭い部分で、その幅は約600mしかなく、海流が凄まじい速さで流れている。何も知らずにここだけを見れば川と勘違いしても誰も責められないぐらいで、現代の船でも流されかねないこの激流の中、900年ほど前には人力の船で海戦が行われたというから驚きだ。また、ここには幕末の大砲も展示されており、長州藩による異国船への砲撃や長州征伐での海戦などつくづく戦いとは縁のある場所で、海路上の要衝であることの証明でもある。 海峡沿いの国道9号線から美術館のある付近で右に折れると、海側に大きな鯨が見える。看板を見ると水族館とあるが門は閉まっており、その状態からするとしばらく閉館しているようだ。水族館入口の正面にある駐車場には、乗り捨てられたような車とエンジンの掛かった他府県ナンバーの車が止まっており、昼間は営業さんの良い休憩場所になっているようなうらぶれた雰囲気があった。小山になっている側にバイクを止めて城跡と思われる小山を散策すると、古い石垣とともに新しく整備された石垣もあった。地図上には関見台公園とあり、公園として整備されてはいるが、どうやら城の遺構とは関係なく整備されているらしい。一旦駐車場に戻り、そこから東側の奥のほうへと進んで行くと、昔の石垣の上に民家が建ち並んでいる。なんて防御力の高そうな家やと思いつつ、石垣の補修は誰がするんやろうなと思ったりもした。もし民家の持ち物として補修せなあかんとなると結構な額が必要なはずやから、そうなると石垣の上に住むというのは憧れるけど、リスクも高いかなという感じだ。 国道9号線に戻ってさらに北東へ進んで行くと長府の辺りで国道2号線と合流するが、且山城へ行く為に左へと折れ、トンネルの手前で右に曲がって狭い道を勝山の方向へと向かう。且山城は大内氏が陶氏に破れた場所だが、勝山へと向かう道の途中に勝山御殿跡という石垣があった。ここは且山城とは別物で長州藩の支藩である長府藩が築いた城だが、もともと長府藩は串崎城を本拠としており、一国一城令で城を廃した後もすぐ近くに陣屋を構えてそのまま幕末まで変わらなかった。しかし、攘夷思想の沸騰した長州藩が外国船に対して砲撃した事によって、報復攻撃を受ける可能性のある海際から急遽山側へ藩庁その他を移したのがこの御殿らしい。だが、急遽竣工した割には石垣や石畳などがしっかりしており、とても突貫工事で造られたとは思えない。日本式城郭の土木工事水準が幕末にはそれだけ完成されていたということだろうか。 勝山御殿から且山城のある勝山までは車道ではなく登山道となっているらしく、相当時間がかかるようだったので訪れるのを断念し、再び国道2号線に戻って今度は東を目指した。国道2号線は小月バイパスで北東方向から南東方向へと向きを変え、しばらく進むと国道190号線と分岐する。その国道190号線で宇部に立ち寄り、駅前で案内板を確認してから北東方向にある霜降岳を目指した。この辺りの城に関する予備知識はあまりないので、持っている地図と駅や現地の案内板が頼りだ。 霜降岳という山はおいしそうな名前をしているが、地図上には霜降城跡のマークが入っており、昔は血生臭い戦場になったはずである。地図を見ながら県道をしばらく走り、目印の山に向けて線路と川を渡って近付いてみたが、小さな集落から出ている道は舗装されておらず、こちらの方向からではバイクで近づく事はできなかった。徒歩で行こうと思えば行ける道だが、麓から本気で山に登らなければならないはずで、確実に半日の仕事になるだろう。残念だが、ここもまた出直していつか来よう。 厚東から国道2号線へと戻り、今度は山口を目指す。山口は幼稚園の頃に家族で行ったことがあるが、そのころの記憶は曖昧で、実質的には初めてと言ってもいいかもしれない。小郡のバイパスを抜け、山口を通って山陰へと向かう国道9号線に入っても土曜というのに想像より道は混んでいなかった。意外と観光に来る人は少ないのだろうか。 山口市内に入ってから国道9号線を外れて市街の中心を通っている県道に入ると、さすがにこの道は流れが遅くなかなか進んで行かない。ただ谷筋に発達した街は長崎もそうだったが、流れの方向が決まっているので大阪や京都のような四方八方混んでいるややこしい渋滞にはならないようだ。長崎は入口が少ないのでその入口の部分は異常なくらい混んでいたが、中に入ってしまえばそうでもなかったし、神戸も海と山が迫っているので細長くて同じような感じだが、こちらも精神的に辛いような渋滞はあまり見かけない。山口も国道9号線がバイパス化されてるし、流れは基本的に南西から北東方向へ通る道がメインでこれと直行する方向はすいており、それほど辛くは無かった。 山口は中世から小京都と呼ばれたように観光資源は豊富なのだが、今日ここに来た目的は1つだけである。目指すは鴻ノ峰。県道を山口の市役所から左に折れ、国道9号線を渡った山口県庁の向かいにある山口大神宮の後背の山がそうだ。この山には、山口を本拠地として繁栄を誇った大内氏の最末期に、毛利氏に備えて築いた高嶺城と呼ばれる中世山城があった。地図によれば山の上のほうまで道がついているらしいが、とりあえず麓の山口大神宮にお参りし、ついでに登山道を探すと予想通り社の裏手にあった。バイクで登っても良かったのだが今日は城に登るということをしていない為、お参りついでに登る事を決心し、ボチボチとしばらく登ると城跡に到着した。城跡には親子2人でハイキングに来ていた人がお昼の弁当を食べていたが、2人に会釈しつつ遺構を探してみると小さな石垣が部分的に残っており、古城の雰囲気を漂わせていた。これらは大内氏の時代のものではなく、その後の毛利氏による改修の時のものと思われるが、うっそうと木々が生えた山中の苔むした石垣は非常に趣がある。そして木々の隙間から見える山口の市街は山を登ったという充実感を与えてくれ、毎度の事ながらこういう景色を見ると疲れも忘れてしまう。こういう時は登山家の心境やね。 山口からは、山陰へと向かう国道9号線に別れを告げて山陽筋に向かうべく、南東方向に走る国道262号線を経由して周防の国府だった防府へと到着した。防府には江戸時代に毛利支藩が置かれており、その毛利邸が観光名所となっているものの、邸宅にはあまり興味がないので立ち寄らずに駅の案内板で他に寄るところがないか確認したが、興味のある城の類は載っていなかった。 防府市内はバイクでぐるっと回るに留め、国道2号線を東へと進むと新南陽市に若山城がある。この城は、大内氏に対して謀反を起こし、有名な厳島の合戦で毛利元就に敗れ去った陶氏の居城で、国道2号線から直に登山道が出ていて行き易い。長い登山用の車道を登りきると昔の城の郭を利用して整備された駐車場と公園があり、土曜ということもあって数組の家族連れがピクニックに来ていたが、その反対方向にはしっかり城の遺構も残っていて、なかなか散策しても面白い。瀬戸内の島々と陽が反射して眩しい瀬戸内海の眺めも素晴らしく、城に興味のない人にもお勧めだ。 若山城から再び国道2号線に下りて新南陽を過ぎ、徳山市街から国道315号線で北上して、毛利氏と大内系の残党との激戦があった沼城を訪れてみた。今では開拓されて美田となっているが、この城は名前から分かるように、当時城のある丘以外は辺り一面沼だったらしい。城の説明板を読みながらそこにいた犬と遊んだ後、高くない丘陵を登ってみると、城の郭があったと思われる場所には施設が建っていて遺構の類は期待できない。そのすぐ下の百地蔵が並ぶ中に沼城址の碑があったが、この辺りだけがなんとか昔の名残を残している感じだ。 沼城からは東へ走る国道376号線を使って国道2号線へと戻っていくが、路面状態はそんなに良くないものの、コーナーが結構多くて遊べる道だった。小刻みに倒しながら遊びつつ走り、周東町から再び国道2号線に合流していよいよ山口県の端っこ、岩国を目指す。 岩国には土曜ということもあって観光客がワンサカいたが、肝心の岩国城は工事中だった。会社の人間と中国地方を1周したツーリングの時にも立ち寄ったが、その時は錦帯橋を渡っただけでお城には登らず、今回こそは城に行こうと思っていたのだが工事中ではどうしようもない。麓の建物も工事中のところがあり、城とあわせて回ったほうが良さそうだったので、軽く年表などの案内板だけ見て先を急ぐ事にした。 岩国を出て国道2号線を東へ行けばすぐに広島県に入る。広島に入ってすぐの大竹市に亀居城という城があるので寄ろうとしたが、なかなか入っていく場所がわからずにうろうろとしていて入口と思われる道を少し過ぎてしまったので、車が来ないうちに10mほど逆走して急な坂道で山へと入って行くと、高速のすぐ脇に城はあった。夕闇迫る中、急坂になっている駐車場にバイクを止めて散策しようとすると、城跡の公園内には重機がたんまり入って工事をしており、残念ながらあまり散策できなかった。 この公園にあった電話BOXで宿の手配を済ませ、国道2号線に入って宿の場所をガソリンスタンドで聞くと、ちょっと待ってくださいと奥に入られた挙句、分からないとの返答。おいおいバイト君しっかりせえよと思いながらガススタを後にして、近くのバーミヤンで食事さっさとを済ませ、宿を自力で探す事にした。飯を済ますと完全に夜になっていたので、まだ生きているアップライトで迷惑を撒き散らしつつ少し戻り、大野浦駅の辺りから国道の裏手の通りに入った。駅の近くということだけは分かっていたものの、周辺を探しても看板が見当たらなかったので、たまたまタバコを買いに出てきたような感じのおじさんに聞くと、ようやく場所がわかった。 宿は大島旅館というところで、なかなか新しい感じのいいところだ。いよいよ明日で最終日。明日のルートをさっさと確認して、早めに就寝した。 |
|
| 走行距離 238.88km |
|
| 11/11 いよいよ最終日。今日も距離を稼ぐ為に6時過ぎに起床して7時前に出発しようとすると、女将さんにコーヒー飲んでいきなさいとおかんのように言われ、厚意に甘えてコーヒーを頂いた。 旅館からとりあえず国道へと出て、大野I.C.から高速へと入る。この高速は、地図上では広島岩国道路となっているが、明らかに前後の山陽道と繋がっているのでどうちゃうねんと思ったが、もしかしたら山陽道の前工事で広島岩国道路として部分開通してたかも知れんなと考え事をしながら走っていると、下りる予定の五日市I.C.に早々に着いた。時間が短かった割には大分の時のように、夏用のグローブしかないせいで手が痺れて千切れそうになって感覚も既になかったが、高速を下りてからは日差しも暖かく、なかなか快調だ。コンビニでいつものようにおにぎりと豚汁を食べて朝飯を済ませ、今日の1つ目の目標へと向かう。 なぜ広島市街に入らずにこちらに来たかというと、目的は佐東銀山城があると思われる武田山ただひとつだ。広島市街とこの北のベッドタウンは太田川で繋がっているが、西側は武田山の山塊で遮られている。昔から銀山城が広島市街の北ということだけは知っていたが、詳しい場所は知らなかった。今回たまたま地図で広島を分けている武田山という文字を見つけ、銀山城が安芸守護武田家の居城だったということで、この武田山にほぼ間違いないと思われたのでやってきた。しかし、事前に調べなかったのが悪かったのか、北からも登れるだろうと思って登山道を探したが、ついに見つけることはできなかった。地図で見ると、なんとなく行き止まりではなく遊歩道のような感じで繋がっていそうだったが、私有地だったり完全に行き止まりだったりした。またいつかリベンジせねば。 武田山周辺でかなり時間を取られたので、広島I.C.から志和I.C.まで一気に突っ切り、今度は東広島の槌山城を目指す。志和I.C.から国道2号線に入ったが、バイパスからは槌山城へと延びる県道に下りることができず、一旦通り過ぎてから右折し、住宅地や田んぼの中をボチボチと戻ってようやく県道へと辿り着いた。今日はどうもウロウロする時間が長い。しかし、槌山城を目指してまだまだウロウロしなければならなかった。 槌山城は東広島市と広島市の市境からほど近い場所にあるが、周辺の道には城に関する案内は一切無く、ゴルフ場や寺から相対的に場所を探すかしかなかったが、それらしい山はあっても入口が分からなかった。1度戸坂峠まで行ってそこから戻ってみても表示はなく、断念せざるを得なかった。最終日やというのに、連続で到達できないというのは運が悪い。 本郷という集落から来た県道を戻り、槌山城へ向かうときに下りそこなった所から国道2号線の西条バイパスに戻って竹原へと進む。この辺りもそうだが、山口や広島の国道2号線というのは随所にバイパスが建設されていて、市街地で混む事がないから走りやすい。やっぱり土地の取得が楽だからだろうか。地元に比べて整備されている感じがする。 国道2号線で新庄というところまで走り、南北の国道432号線を南へと進むと竹原市街へと着く。竹原には小早川氏という、海賊を束ねて後には毛利一族となった豪族がいたはずだが、とりあえず何の情報もないので竹原駅で情報収集してみると、通ってきた国道のすぐ東に木村城というのがあり、駅のすぐ近くにもうひとつ鎮海山城というのがあるらしい。木村城は過ぎ去ってしまったので鎮海山城に向かう事にし、駅を出発して大通りから少し入った割と広い路地で城を探しながら走っていると、後からクラクションを鳴らされた。それほど遅く走っていた訳でもないのに、よほどイラついたのか。学生時代に広島に来た時も思ったが、広島の車の運転は荒いしガラが悪い。どこでもタクシーはタチが悪いが、広島は大阪と同じぐらいタチが悪かった。すぐクラクション鳴らすのも、やはり短気で運転が荒いせいだろうか。 鎮海山城は公園の後背にあり、登り口は民家のそばで分かりにくい。もしかしたら他にもルートはあるかもしれないが、他に探すのも時間がかかりそうだったのでボチボチ山を登っていくと、途中で竹が道に覆い被さってちょうど荒れた竹垣のようになっており、それ以上進めなかった。せっかく苦労して見つけたのに中途半端な感じでもったいないが、斧か鎌でも持ってない限りこの先には進めそうにない。本日3回目の断念。 竹原からは、来た道を戻るのも面白くないので、海沿いの国道185号線を進む事にする。地図にはペースが上がる快走路とあったが、なかなかペースが上がっていかない。忠海近くまで来てようやくペースが上がってきたが、次は小早川隆景所縁の高山城がある本郷に向かうので県道59号線で北上しなければならず、快走できたのは少しの間だけだった。そういえば中国地方を1周した時も三原からこの国道185号線で呉まで走ったが、それほど流れが良かった記憶はない。実際のところ、どうなんやろ。 海沿いから10数分北上すると、高山城のある沼田川に到着する。この高山城というのは新旧2つあって、古いほうは妻高山城、新しいほうは新高山城と呼ばれているが、どちらも山容や標高、岩質の山肌などが酷似している。沼田川沿いを走っていると新高山城のあった山に、「小早川隆景居城 新高山城跡」とあったので、橋を渡ってバイクで麓をぐるっと回ってみたが、登れるような道を見つけられなかった。看板が出ているのに入れる道の案内がないというのには少し不満が残るが、今日は最終日で少し急いでいるのでいつものようにトコトン探さないというが、断念が多い理由のひとつだろう。 気を取り直して新高山城から少し道を戻り、新高山と沼田川を挟んで向かい合う妻高山城に向かったが、こちらは看板すらなかった。住宅地が城のあったと思われる山の中腹まで迫っているが、そこから繋がっている登山道は無く、裏から回ってみてもそれらしい道は見つけられなかった。どちらかには少なくとも行けると思っていたが、まさか全滅とは。また予習して来なければならない。 本郷から沼田川沿いをバイクで10分ほど下れば三原に出るが、ここにある城も小早川隆景所縁の城だ。この三原城は近世城郭だっただけに高山城のように城を探す手間も掛からず、市街地の中央にデンと構えている。ただ、この城はかなり特異で、城の本丸をJRがぶち抜いているので石垣には通路が設けられ、駅舎と城跡が一体化している。明治27年に鉄道はできたというが当時から高架であったとは考えにくく、本丸を貫いているとはいっても他のところに見られるように他の郭の堀跡などを利用して石垣をうまく避けていたと思うが、都市化の過程で高架になった時に石垣も巻き込まれてしまったのだろう。本来なら、城跡はきれいに整地されてなくなってしまってもおかしくないところだが、何とか都市化の波に晒されながらも辛うじて生き残っているような印象でも、全く無くなってしまうよりはいい。 三原から国道2号線で海岸沿いを行き、尾道の前は何回も通ってるけど1回もまともに観光した事ないなと思いながら、今回も尾道に寄らずにバイパスへと入ると、鳴滝山の近くに鳴滝城がある。バイパスを下りて鳴滝山の方へ登っていくと、結構広い山道が続いて5台ほどが止められる駐車場へと着いた。鳴滝山へはここから徒歩で登っていくようだが、その反対側にもやや低い峰があり、そこは鳴滝城山と呼ばれているらしい。当然この山に城があったのだが、そちらのほうへ進んで行くと、周辺が私有地の畑として開墾されているようだ。一応道に扉があったが、声を掛けようにも畑には人が居なかったので軽くお邪魔しますと呟きながら扉を通過して山を登っていくと、頂上がやや広く削平されて城址碑が建っていた。ここから見える瀬戸内海は山々の谷筋からわずかに見えるだけとは言え、なかなか綺麗な景色で、こんな景色を持つような、そんな山岳城は攻城に苦労しただろう。頂上はまぁ本丸として、下の畑になっている場所が郭たちだろうか。後で開墾されたものか、当時の平坦な郭を利用したものかはちょっとわからない。 鳴滝山を下って国道2号線に戻り、交通量の多い道を東へ進んで行くと福山に入る。ここは江戸時代に福山藩があって今も立派な天守閣が建っているが、これは復興されたものだ。まあ何にしろ、これだけ分かりやすいランドマークがあると楽なので、国道2号線からJRの北へ入り、迷うことなく福山城へと辿り着いた。思えば学生時代に福山に友人がいたが、1度来ようとして連絡が取れずに福山に寄らないまま広島まで行ってしまったので、かれこれ8年来の宿願になるか。そんなことを思い出しながら天守閣の最上階に建つと、目の前には福山市街地が広がっていた。城の近くにはJRが通り、市街地の中では天守が特別高い建物でもないので、はっきり言って眺望は良くない。それでも景色を見ていると、8年の年月とこのツーリングの最終日ということが、寂しさとも切なさとも懐かしさとも判別できない複雑な思いを連れて来る。 福山を出る頃には既に夕方の空に近付いてきていたが、焦るでもなく東へと進路を取り、福山の市街を抜ければ広島と岡山の県境が現れ、岡山の端っこの町、笠岡へと入る。笠岡は干拓で有名だが、地図からもどれだけの土地が干拓されたかがはっきりと分かるほどで、昔はそれだけ農地が必要だったのだろう。今では巨大な環境破壊だが。 会社の同期に笠岡出身のやつがいたが、そいつの言うとおり笠岡市街自体には特にこれといったものはない。目指すのは国道2号線沿いにある古城山公園だ。ここは国道2号線沿いにあるので迷うべくもないが、着いてみると、説明板には干拓の際の土砂搬出によって笠岡城の遺構は失われたという事が書いてあった。確かに遺構らしい物はなく、大きく段差があったりするのはもとの地形の名残だろうかとも期待してみるものの、それも確認しようがない。 干拓地には夕日が差し込んでいて、公園からはとても綺麗な景色となっているが、思えばまだ4時なのにこれだけ夕方の色が濃いという季節になってしまった。バイクで旅するのも、陽が短く気温も低くなって限界に近い。そして、この旅もいよいよ帰路を残すのみとなった。さみしい一面、3週間ぶりに自宅に帰るという安心感もある。だが、旅にはまた来なければならない。今回も行き損ねた場所がたくさんあったし、いろいろ考える時間が必要になる時もあるだろう。さすがに、今度はこれだけの時間を割くことは無理かもしれないが。 笠岡の市街地で給油だけを済ませ、ほど近い笠岡I.C.から山陽道に乗ってひたすら東の自宅を目指す。ヘッドライトが使えないこともあって日没までにどれだけ距離を稼げるかが勝負だったが、姫路バイパスまで薄暮の間に行くことができた。ここまでくれば勝手知ったる道だけに、なんとでもなる。日曜の夜ということもあって高砂から明石西まで渋滞が続き、はた迷惑なハイビームの出番はあまりなかったが、なんとか無事に自宅まで帰り着くことができた。 これで小休止を挟んで合計6週間の日本1周が終わったが、北海道と四国は行けなかった。それでも距離は10000kmを越えた。その間、大きなトラブルもなかった愛車に感謝しないといけない。そしてご苦労さんという気持ちを込めつつ、行けなかった北海道と四国で次に活躍してもらうためにも、しっかりメンテしてやらねば。 |
|
| 走行距離 397.60km 合計 19日間 4766.56km |