〜前編からの続き〜

10/30
 この日の起床は6時半。とりあえず健康ランド泊恒例の朝風呂を浴びて、午前7時過ぎには出発した。
 万葉の湯からすぐの国道3号線に入り、東南の太宰府近辺へとバイクを向けた。この辺りは観光客も多いので、できるだけ早い時間に回って午前中に脱出し、寄っていない福岡市街近辺に一旦戻ってから佐賀県へ入りたいが、今日でどこまで行けるだろうか。
 まず最初に訪れたのは水城跡。国道3号線から少し外れてJR水城駅に着き、線路沿いのすぐ近くに史跡はあった。一見すると何の変哲もない丘のようだが、約1400年前に造られたものが形を持ってこれだけの年月の間残っているというのは凄いことだ。これも太宰府防衛の施設の1つだが、当時の切迫した状況が窺えるし、その意気込みが、これだけの年月を過ごしてもなお形を残す遺物を造ったのかも知れない。
 水城跡から東南に少し行けば、大宰府跡がある。ここには古代から中世にかけて政庁があったのだが、今では都督跡という石碑と広大な平坦地があるだけだ。しかもこの遺跡は、つい何十年か前まで田園に埋まっていたという。よくこれだけの広さの土地を発掘調査したものだ。この広大な遺跡をブラブラしていると、出張ついでに訪れたという感じのスーツ姿の男性2人が寄ってきて、写真をお願いできますかと言われた。撮るのは別に何でもないが、自分もカメラを持っていたので、あなたも撮ってあげましょかと言われた時、いいですと答えたのに何故か撮られる羽目になったのには困った。もともと風景や記録専門で自分の姿は残さないのだが、もう1度断るという事もできず言われるがまま撮られるしかなかった。でも、このカメラは甘押しでフォーカスするので、それを知らない人に撮ってもらうとシャッターと勘違いする人が多く、今回も何となくだが撮れてないような感じだった。
 大宰府跡を出発して、次は太宰府天満宮やねと思いながら進んでいるとつい天満宮を過ぎてしまったので、このまま宝満山に向かった。宝満山には、戦国時代末期に大友氏から度々叛乱した高橋氏が詰の城を築いていたが、この城は標高がべらぼうに高いところにあるので車道が整備されているか分からない。ゆっくりとしたスピードで徐々に登って行くと、周囲には登山の格好をした中高年の姿が溢れるようになってきた。中高年の登山ブームを目の当たりにしながら、どうやら彼らは宝満山に登るらしいということがわかり、という事はバイクで登れないんやということもついでに分かり、仕方がないので引き返して竈門神社入り口にあった案内板を覗いてみると、有智山城というのが目に入った。おう、有智山城って少弐氏所縁の城やんと思い出し、案内板を記憶して宝満山のかわりにバイクをそちらへと向けた。
 有智山城は有智山寺と一体化するようにあり、案内板によると九重平という比較的平坦な場所の近くにあるらしい。バイクでえっちらおっちら登って行くと高原のような視界の開けた場所があり、ここが九重平らしい。ここから山の方向へ勘を頼りに登って行くと、幾重もの壮麗な石垣が出てきた。どうやらこれが有智山寺跡の石垣のようだ。こんな標高の高い場所にこれだけの人工物を造るという事は、当時はかなりの勢力があったと思われる。いよいよこの奥に城があると思いながら更に登って行くと、ついに舗装された道は終わり、そこからは悪路が続いている。ここでバイクを降り、ここからが本番と徒歩で山のほうへ向かっていったが、この道は草が生い茂ってまともに立って歩く事ができない。ほんまにこの先にあんのかと思いつつ四苦八苦しながら茂みを抜けると、杉林で足元が快適な森の中に出た。この辺りも段々に区画されており、たぶん往時には寺坊か城の屋敷があったに違いない。新しい感じの山門を左手に見ながら更に進んでいくと、有智山城の石垣と堀切の碑があり、ようやく城にたどり着いた。しかし城としての遺構ではっきり残っているのは碑のある部分だけで、あとは土塁が推測できる程度のものでしかなかった。
 宝満山を下り、次は先ほど行きそびれた太宰府天満宮へと向かう。ここに来るのは中学校の修学旅行以来だ。バイクは車と違ってどこにでも止めれるので、境内の近くにパッと置いてお参りすると、修学旅行の時と変わらず人は多かったが、境内は記憶にあるイメージよりもこじんまりとしていた。あの時よりも成長したという証だろうか、それともただ単にイメージが膨らんでいるだけなのか。
 人の多い天満宮をそこそこに、そのままほぼ正面にある、大城山を縦断する道へそそくさと進んだ。まず最初に発見したのは浦之城の碑である。この城は辺り一帯の住宅地の開発で遺構が失われたらしい。残念な事だ。浦之城からそのまま山を登って行くと、高橋紹運が玉砕した岩屋城紹運の墓がある。もともとは岩屋城の一角に墓もあったのだろうが、今では道路が城を分断している為、道の左右に分かれてしまっている。とりあえず紹運の墓のほうにお参りし、そのまま岩屋城に登ると、「嗚呼壮烈岩屋城址」と刻まれた城址碑があるが、これほど短くこの城を表した碑文はないと感心した。正に壮烈としか言いようの無い最期を紹運が迎えたのは戦国史では有名な話だ。
 清掃の業者がいてゆっくりできなかった岩屋城を後にして更に道を登っていくと、登りきったところで古代に築かれた大野城跡に着く。今ではこの日みたいに小学生が遠足に来るような史跡公園だが、築造当初は大宰府を防衛する純然たる軍事施設だった。今でも遺構は数多く残っているようだが、天気の良かったこの日はただの長閑な公園にしか見えなかった。ちなみに大野城は、ただ単純に大城とも呼ばれていたようで、大城山の名前のもとになっている。
 大野城を出ようとしたとき、太宰府から登山してきたという老婦人に声を掛けられたが、この人はあちこち健康ランドなどに泊まって登山しているらしい。その話によると、大分にも熊本にも健康ランドがあるそうだ。貧乏旅行にはいい話を聞かせてもらった。
 大城山を下った後に目指すのは、福岡藩黒田家の福岡城があった大濠公園である。国道3号線は大型車が多そうなので、並走する県道を駆使して大濠公園に寄ってみると、さすがに大大名の居城だけあって壮麗な石垣を持つ城だった。建物の類はほとんどないが、敷地の大きさや巨大な天守台の石垣を見ると、当時の威容が知れる。
 もう昼を過ぎているので予定よりだいぶ遅れているが、ようやく福岡を脱出して国道202号線を西へと進む。途中の吉野家で遅い昼食を済ませ、周船寺から南下して古代は怡台城、中世は高祖城と呼ばれた高祖山を軽く散策し、いよいよ三瀬峠を越えて佐賀に入る。
 三瀬峠といえば江戸時代に福岡藩と佐賀藩の境目だった場所で、鎖国していた日本にあって、さらに藩としても日本国内に対して鎖国をしていた佐賀藩の関所があったところだ。昔は難所だったんだろうが、今では国道となってかなり快適なワインディングロードとなっており、この日も途中でダンプに捕まるまではかなり快適だった。いよいよ峠の本番に差し掛かるというところにはトンネルができているが、ダンプは通行料金を嫌ったのか現場がこの上にあるのか、国道の峠道のほうへと入っていったので、タイトな峠をダンプの後でボチボチと行くのはさすがに辛く、トンネルを使ってショートカットする事にした。このまま国道263号線を突き進むと、昔の街道と同じように佐賀に着くが、ここまで来た目的は脊振山地にある松浦党の城を巡って行く事にあるので、大和町から県道209号線を西へと折れた。
 脊振山地の中を西へと進んでいくと、ひときわ高い天山を周回するような道になり、周辺にはスキー場があるような所だけあって気温は低く冷え込んでいるものの、道は広くて攻め甲斐がある。この高所を満足感を持ちつつ過ぎると厳木の市街地に出るが、近くには獅子ヶ城という城がある。この城は松浦党によって築かれ、重要な位置にあった為か立派な石垣まで備えており、山城としては上等の部類入るだろう。この日は本丸付近で発掘調査が行われており、まだまだ調査の過程にあるようだが、この地道な作業が自分ら城マニアにとって嬉しい情報をもたらしてくれるはずで、感謝しなくてはならない。
 厳木から唐津街道と呼ばれる国道203号線を北西へ進んでいくと、もう1つ松浦党に所縁のある城がある。この岸岳城と呼ばれる城は上松浦党の首領であった波多氏の居城で、尾根筋に三日月状に築かれて周囲は絶壁という大変要害な地にある。あまり手入れの行き届いていない遊歩道を登って散策してみると、とてもじゃないがこれ以上拡張できるようなスペースは無いというほどの非常に中世的な山城で、久々に山城らしい山城だった。
 日暮れの迫った中の散策となった岸岳城から、山に入ったのと反対側の国道202号線に降りてそのまま唐津を目指すと、遠くにぽつんと唐津城が見えてきた。この情景は旅行のパンフレットなどでも有名だが、城好きが見ると、川と海にせり出した山にあってなかなか堅固な城というふうに見える。ところどころ石垣や城門跡の残る市街地を走り、唐津城の天守閣に着いた頃には入館できる時間ではなかったが、復興されたコンクリート製の天守に入れなくてもそれほど気にならない。それよりも、薄暗い為に城内を散策しても見落としがありそうで、それが気になってしょうがなかった。市街地に残る遺構も含めて、1日がかりで散策するのもいいかも知れない。
 唐津城の散策を終えた頃にはどっぷりと日は暮れていたが、麓の電話ボックスで何軒かの宿に電話してみると、なんとか宿を取ることができた。そのまま松浦橋を渡ってファミレスで食事を済ませ、予約した旅館に迷いながら着いてみると、木がふんだんに使われたなかなか趣のある旅館で、風呂も広く得をした。明日は晴れるらしい。じっくりと体を休めて備えよう。
走行距離 180.96km

10/31
 朝起きて窓の外を見てみると今日は完全なる秋晴れで、正に快晴と言える天気だった。天気予報通りの晴れに気合が入る。
 唐津を出発して海沿いをぐるっと回る国道204号線に入ったが、朝のラッシュ時間ということもあってなかなか流れが悪い。一向に進んでいかないので、半島の山間を抜けている県道23号線を使い、名護屋城に着いたのは午前9時の少し前だった。
 ここは秀吉の朝鮮出兵の際の陣城として築かれ、出兵が終わると廃城にされたというが、当時大坂城に次ぐ巨大な城郭を持ったこの城は総石垣という豪華な造りである。陣城ということはつまりは前線基地に過ぎないのだが、その城にこれだけの規模と設備を持たせ、資金を投入したという秀吉の権力はもの凄い。これが家康なら、これほどまでに豪壮な城は築かなかっただろう。
 清掃代100円を払って名護屋城内を散策してみると、一層その広さと豪華さが分かる。建物や石垣もだいぶ持ち出されたらしいから、当時はこの石垣群から想像できるものよりも、まだ豪華なものであっただろう。驚嘆の一言に尽きる。
 名護屋城からは、半島回りの国道204号線に戻って西岸を南下していくと、道は伊万里で再び北へ向いて松浦の方向へと走っている。このあたりの道はリアス式海岸ということもあって、コーナーやアップダウンが多く、思ったよりも時間がかかる。伊万里まではかなり快適なペースで走れたが、伊万里からは交通量が増え、信号がほとんど無いのにペースは上がっていかないのも原因のようだ。
 松浦市に入ったところで梶谷城という表示を見つけて道をそれてみたが、草が異常に繁茂して行く手を遮り、散策する事はできなかった。悔しいのでなにか資料はないかと松浦駅に寄ってみると、運のいい事にワープロ打ちの資料があった。こういうのが駅にあるのは珍しいが、遠慮なく貰っていく事にしよう。
 その資料によると、元寇の時に激戦地となった城が星鹿の城山にあるらしい。ちょっと寄ってみたい気もするが、元寇の時の城となると当然山の頂上に構えられた中世的な城だろう。しかも地図を見る限り車道らしきものが無く、徒歩で下から登って行かなければならない可能性が高いので小一時間はかかる。今日は長崎まで行く予定にしているということを考えると、時間にはあまり余裕がない。しかたがないが、ここは涙を飲んで通過するとしよう。
 国道204号線は、田平町で大きくヘアピンを描いて南へと向きを変えるが、その直前に陣笠城という表示を見つけたので散策し、いよいよ今日の目標の1つである平戸へと向かう。平戸島へ渡るには平戸大橋が唯一の道で、田平で大きく曲がっている国道を進んでいると徐々に橋が姿を現し、狭い海峡に島へ向かって朱色の橋が架かっているという絶景が広がってきた。ここは意外と知られていないポイントではなかろうか。
 平戸大橋を渡ると平戸市街に入るが、観光都市とはいえ、思ったよりも小さな街だ。とりあえず海岸沿いをバイクでブラブラと見て回り、折り返して平戸城へと向かった。この城は関ヶ原の合戦直前に築城が開始されながら合戦の後に原因不明で焼失し、再建されたのは江戸時代の中頃というちょっと複雑な城だ。大きな石材が不足していたのか、小ぶりな岩でできた石垣や石でできた狭間などなかなか見ごたえがあり、櫓や城門も残っているが、残念な事に天守閣は再建されたもので中は資料館になっている。
 時間が無いので平戸観光はこのぐらいにして再び平戸大橋を渡り、国道204号線を南下していると、この旅の1000mileと、今までの総計10000mileを達成した。kmに直すと1600kmと16000km。よく走ったものだ。
 達成の余韻もそこそこに国道を南へそのまま行くと、道は海岸に別れを告げて吉井町へと向かい、そこで偶然発見した直谷城を襲撃した後、国道204号線とも別れを告げて県道54号線に入り、国見トンネルを経由して西有田町へ向かった。なぜ西有田町に向かうのかといえば、当然、城があるからだ。名を唐船城という。
 国見トンネルを抜けて、片側2車線のヘアピンが続く県道326号線を楽しみながら下っていくと、ちょうどその下った先に城はある。なるほど、遠くから見ると山が中国の船の形をしている。適当にバイクを止めて、公園となっている麓から登っていろいろと散策してみると、船のヘサキにあたる頂上の先端のところに展望台がある。ここから見渡せる景色は絶景だが、もしかしたらここに櫓か見張り台があったのかもしれない。他に案内板の類を発見できなかったのが残念だが、この景色で満足だ。
 唐船城を出て、昨日も通った国道202号線をしばらく南下し、渋滞を避けるように県道4号線から真っすぐ南へ下っていくと、いよいよ大村湾に出る。佐世保の軍港も見たかったが渋滞で時間を取られそうなので、今日の残り時間を考えるととても行けない。京都の舞鶴で見たのを思い出しながら、あれと似たようなもんやからいいやろと勝手に四捨五入して自分を納得させた。
 川棚から国道205号線、国道34号線と乗り継いで、大村湾を右手に見ながら南下していくと、長崎空港の東に三城がある。ここは中世の頃に大村氏の居城だったが、今は第2次世界大戦戦没者の慰霊塔が建っていて、遺構はあまり見られない。
 大村には近世江戸時代の大村氏の居城もあるが、三城から国道に戻ってなんとなく走っていると過ぎてしまった。しかし、時間はもう5時になろうとしている。今から行ったところで櫓や資料館には入れない時間になっているので、長崎空港も近いことやし、また来る機会もあるやろうとそのまま南下を続けた。
 大村市の南で諫早を回避して県道37号線を使った以外はひたすら国道34号線で長崎を目指したが、長崎の手前10数kmから市街地までの間ずっと渋滞していて、ええかげんケツからモモにかけてマフラーの熱で汗だくになってるわ、日も暮れてしまってるわですっかり滅入った。肉体的にはもちろん、精神的にも疲れたので、休憩する為にコンビニに立ち寄り、ついでに今日の宿を探す為に電話帳から健康ランドを調べてみると、ヘルスセンターを見んかいと書いてあり、京泊というところに1軒だけあることがわかった。今日の宿をそこに決め、とりあえず京泊まで頑張ることにした。
 地図を眺めてみると、長崎という街は山と山に囲まれた谷筋にあり、南西は細長く入り込んでいる長崎湾に面している。港としては風浪を避けることができる良い地形だが、平地が少ないので都市が発展しにくい。つまり山ばかりで使える土地が少ないのだが、当然都市を構成する道路もそれに当てはまるので、市街地にアクセスできる道路は数本の国道とバイパスしかない。これは都市の構造的な問題であるから渋滞は必然ともいえるのだが、巻き込まれた当人としてはかなりぐったりとなる。坂本竜馬の亀山社中や出島跡など、長崎には歴史的な観光地も多く、それを楽しみにしていたのだが、すっかり立ち寄る気分が消えうせてしまった。大村の城にも寄ってないし、またいつか長崎にはバイクではなく、普通に観光しに来るとしよう。
 長崎市街に着いたのは7時を過ぎていたが、ヘルスセンターのある京泊という場所が分からなかったのでとりあえず駅前の交番で場所を聞いてみると、京泊は新長崎港という長崎市でも北西の端のほうらしい。おいおい、単に渋滞にハマりに来ただけかいと思いながら、京泊へ向かう途中で吉牛を掻き込みつつ、意外と車が流れている市街地を北へと走り抜け、ようやく目当ての湯楽園というヘルスセンターへとたどり着いたのだった。しかしヘルスセンターにしては大きくないんやなと思いながら店に入って店員に聞いてみると、宿泊施設はあるようだが雑魚寝して仮眠の取れるような場所は無く、しかも修学旅行で部屋はいっぱいとのことだった。しかたがないが、今日は野宿のようだ。
 風呂に入ってみると、修学旅行の小学生が入っている時間で騒がしさがピークに達していたが、中には自分の3倍ぐらいのケツを持っていて、やたらゆっくりとしか動かない巨漢児童をはじめ、肥満気味の子供けっこうおり、最近の子供は飽食してるんやねという気持ちを強くした。この健康ランドともスーパー銭湯とも分類しにくい湯楽園は12時までだったので、ゆっくりと12時近くまで今日のルートのまとめや明日のルート整理をしてくつろぎ、閉店間際になってから野宿場探しへと出かけた。
 海が近いこともあって野宿できるところはすぐ見つかるだろうと思っていたが、海側は街灯などがあって暗い場所がない。仕方がないので、少し山側の住宅地にある公園で野宿する事にし、天気が持つことを祈りつつ眠りに就いた。
走行距離 288.48km

11/1
 この日目覚めたのは6時前。住宅地にある公園という事もあって、朝早く散歩する人が結構おり、その足音で目が覚めた。
 この日の天候は、予報によれば曇のち雨。テントは露で濡れていたが、太陽が出なけりゃ乾かしようがないので濡れたまましまい込み、6時半過ぎには出発した。
 もう11月である。この日はまだましだったが、徐々に朝の冷え込みがきつくなり、早朝に走るのは寒い。しかし暮れるのも早くなっている為、距離を稼ごうとするとどうしても早朝に走らなければならないというジレンマがある。
 昨日の経験から、長崎は市街地に入ってしまえばそこそこ流れているが、市街地にアクセスする道路が混んでいるらしい。昨日の渋滞がトラウマのようになっているので長崎は早朝に過ぎるのが最善と考え、川平道路から西山トンネルを抜け、トンネル出口から東に出ている市道を使って市街地を素通りし、山を越えて国道34号線へと出た。昨日の渋滞の主戦場はこの国道だが、そこはすぐさま国道251号線に入るつもりで北へ折れると、つい交差点を曲がり損ねて国道251号線を過ぎてしまった。もう朝の渋滞は始まっている。しかし道は他にはないので、ロスを覚悟で渋滞している国道を引き返して国道251号線へと入ったのだった。
 島原半島1周が今日の目標だが、とりあえず長崎を過ぎた安心感に浸りながらゆっくりコンビニで立ち読みして朝飯を買って出てくると、コンビ二の駐車場だと思ってバイクを止めていたところは、なんと隣の修理工場の入口だった。9時を過ぎて工場が始業していたのでバイクはあからさまに邪魔になっており、慌てて頭を下げながらバイクを移動したが、ほんまに申し訳ない。
 腹を膨らませてコンビニを出発する頃、見る見るうちに雲が厚みを帯びてきた。これからは時間との戦いになりそうだ。とりあえず荷物にはカバーを被せ、自分は降り出すギリギリまで走りにくくなる雨具を着ない方針で出発し、島原半島へと入った。
 島原半島の西の入口である千々石町で釜蓋城なる案内を発見し、今日は時間との戦いであるがとりあえず寄ってみることにした。ローマへと旅立った少年使節の4人のうちのひとりに千々石ミゲルという人がいるが、この城はその千々石氏の居城だったらしい。今は運動公園となって、遊具施設やグランドの元が城として削平された土地だったかもしれないと思わせる程度で、天守閣をかたどった展望台があるだけである。展望台に登って雨雲が低く垂れ込めている橘湾を眺めていると、ついに雨が降り始めてきた。島原の乱で有名な原城や有馬氏所縁の日野江城を十分に散策できるか心配だが、先を急がなければならない。
 いよいよ本格的に降ってきた雨の中、海岸沿いを淡々と南へ走る。さすがにこの時期の雨はきついものがあり、1時間も走らずに休憩してしまう。そうこうしているうちに半島最南端の口之津を過ぎ、いよいよ有馬氏の本拠へと入ってきた。日野江城よりも手前の国道右手には原城があり、道沿いには案内が出ている。その案内にそって道を進んでいくと、原城と原城温泉の案内が出てきた。まだ雨は降り続いているし、体温もだいぶ奪われている。暖を取るつもりで少し休んでいく事にし、城とは反対方向にハンドルを切った。
 この原城温泉は、温泉センターと国民宿舎を合わせた真砂という名の施設が数年前に新たに建てらたものらしい。平日の昼間ということもあって若い人間は自分1人で、見渡す限りジジババという壮絶な温泉だったが、露天風呂がないこと以外は、湯船から島原湾が見渡せるロケーションも含めて抜群だった。晴れていればよっぽど良い景色になるはずで、その景色が見れなかったのと、青森と同じようにおじいさんに話しかけられても方言が理解できなかったことだけが心残りだ。風呂で暖を取った後、すでに昼の時間になっていたので温泉に付属している座敷でご飯を食べたのだが、ここもジジババのやりたい放題で、平均的に耳が遠い為に話し声が大きくなってうるさかったり、昼寝をしている人が10人近くいたりした。いくら雨で外に行けないとはいえ、これだけジジババが集結するということは、行政から無料パスか割引券が配られているのだろうか。
 原城温泉を出る頃には雨もほとんど上がり、温泉で雨宿りしつつついでに暖もとるという作戦は成功した。温泉を出てさっそく隣接する原城に立ち寄り、発掘作業途中の石垣などがある中を散策して回って日野江城へ出発しようとすると、いろいろ大きな荷物を積み込んだカブのおじさんとすれ違った。あのおじさんも野宿しながらあちこち回ってるんだろうか。
 日野江城も原城と同様に発掘調査中だったが、海側と山側から2回登って広さを実感した後、海岸沿いを東へ進んで行き、楕円状の島原半島の海岸線が自然に南北方向になる頃、島原へと差し掛かった。この島原市の入口には水無川が東流しているが、この川には普賢岳の噴火当時、幾度となく土石流が発生した為、この日も改修工事が行われており、延々と砂防壁のようなものが造られていた。この辺り一帯は、普賢岳の噴火前後で土石流や改修など著しく地形が変わったことだろう。
 島原市街が近付いてくると島原城が見えてくるが、市街に入って思うことは道があまり良くない事だ。街の復興にお金がかかっていて道路まで回らない為か、それとも火山灰による損傷なのか。そんなちょっとガタガタしている道を案内に従って進んでいくと、迷わずに島原城へと到着した。遠くから見えていた島原城の天守閣は復興されたもので、本丸にも順次復興された櫓が並び、そこだけ往時を思わせるような雰囲気を持っている。本丸には車が出入りしやすいように車道が付けられ、その中は整備されて駐車場や彫刻の展示場になっており、昔の姿からは程遠いものとなっているのは残念だが、天守閣も資料館を兼ねた鉄筋コンクリート製である以上、そのあたりは仕方ないだろう。その鉄筋コンクリート製の天守閣から普賢岳を望んでみると、眉山までは見えたのだが、その奥の普賢岳はガスに覆われて見えなかった。
 本丸に並んでいる櫓の中には、普賢岳の噴火とその復興に関する観光復興記念館もあり、当時の凄まじい状況と被害の大きさが分かるが、実際のところ、被害に遭った人間の辛さや悲しさは同じような災害に遭ってみないと理解できないのだろう。阪神大震災でもそうだったが、被災地とその他の地域では心理的な温度差が想像以上にあって、災害を頭で知ってる事と肌で感じる事には雲泥の差があることを痛感したし、自分も他の被災地に対しては、被災者としての経験があるにもかかわらず理解しきれないところがある。人間やっぱり痛い目にあわな分からんということなんやろけど、少し悲しいことやね。
 島原市から更に国道251号線で北上していくと、すぐに沖田畷の合戦で討死した龍造寺隆信の碑があるらしい。注意深く探しながら国道を進んでいったが、なかなかないなと思って地図を見返してみると、もうとっくに過ぎていた。肥前の熊の最期の地を訪ねてみたかったのだが、残念だ。
 そのまま島原半島を国道251号線で北上し、次は神代にある神代城を目指していたが、途中で国道から外れてふと見つけた国見高校の前を通ってみた。全国高校サッカーの頂点に何度も立っている有名名門校がまさか県立だとは思わなかったが、その周辺も微妙な感じの田舎で、サッカーボールの形をした街灯が唯一サッカーの名門を示すぐらいのものだろうか。学校の建物も県立だけに何も考えなかったら通り過ぎてしまうぐらい地味で、全国的にあれほど有名なのにこんなんでいいのだろうかとも思うが、私学のような派手さがないだけにその強さには余計に感服する。
 神代城を散策し、吾妻町で急遽見つけた守山城に立ち寄った後、諫早市に入ったのは、もう陽が沈んで夜といっても差し支えない程度の暗さになった頃だった。地図によると、ゆうゆうランド干拓の里という健康ランドがあるらしく、今夜の宿はそこと決めていたが、健康ランドがあると思われる場所に明かりは無かった。1度行き過ぎておかしいなと思いつつ、戻ってもう1度よく確認してみると、なんと建物はあるが全く明かりが無い。倒産したか休業日だったかは知らないが、今日の宿にする事はどうやら不可能らしい。
 宿の予定が白紙に戻ったので、完全に暗くなった道を一旦諫早市内へと走り、駅近くの電話ボックスで電話帳に載っている全ての宿に電話してみたが、時間が遅かったこともあって残念なことに予約は取れず、初の連続野宿が電撃的に決定した。
 野宿が決定したので、風呂と野宿場を探さなければならない。地図を覗いてみると、諫早から20kmほど北東に走ったところにたら竹崎温泉というのを見つけた。佐賀へと入る予定ルート上でもあるし、少し距離も稼げる。とりあえず風呂をここに決め、本当は明日の朝一で諫早にあるはずの城を探すつもりだったが、それを断念して出発した。
 途中で夕食にカレーを食べ、佐賀と長崎の県境付近にあるたら竹崎温泉付近に着いた時には、携帯に表示された時間はもう午後9時になろうとしていた。最初、国道沿いにある、蟹と温泉が楽しめるという宿泊施設の蟹御殿に行ったが、外湯は別になっているというのでそこの店員に外湯の行き方を教えてもらい、どこへ行くのか分からないような道を下って海岸沿いの入口へと着いた。ちょうど駐車場から見上げると蟹御殿があり、多分風呂自体は同じで入口を分けてあるだけなのだろう。
 温泉の中に入ってみると、蟹御殿の宿泊客らしき3人のやや酔った人が入っていたが、平日という事もあってすいており、なかなか快適だ。入って分かったが、ここはたら竹崎温泉ではなく太良嶽温泉というらしい。すぐ近くでどう違うのかわからないが、もしかしたら自然湧出ではなく、ここは掘って出た温泉かもしれない。風呂の設備は、最近珍しくもなくなったようなひと通りのものは揃っており、あとは露天風呂にもう少し高さがあれば申し分ない眺めになってたことだけが惜しかった。
 地図によると、温泉の営業時間は10時までらしい。テントではルート整理ができないのでここでしていくしかないのだが、風呂から上がった時間が9時50分なのであまり時間がない。何か言われるまで粘ってできるところまで整理しておこうと座敷に座っていると、10時を過ぎても何も言われないどころか、新たにお客さんも来ている。どうやら終業時刻はまだ先らしい。店員の人も親切だったし、ほっとしながらルート整理をする事ができた。
 10時半頃に温泉を出発し、今夜の寝床を探しに周辺を彷徨ってみたが、特に良さそうな場所が見つからない。参考に地図を見てみると竹崎という半分島になったような地形が近くにあり、そこには何かありそうなのでボチボチと行ってみると、島の高所になっているところに展望台があるらしい。展望台ならなんとかなるやろとドン突きの展望台まで坂道を上っていくと、広い駐車場と展望台の間には芝生が植えられていた。駐車場の街灯は多少明るいが、下が芝生というのはかなりイケている。よし、ここで決定やなとほっとした感じでつぶやき、さっさとテントを設営して就寝した。
走行距離 249.12km

11/2
 朝、明るくなって目覚め、歯磨きや顔洗いなどの身支度を済ませて周囲を散策してみると、駐車場の脇に竹崎城の案内板があった。城について書いてある内容は少しだけで、展望台として整備されてしまった城跡には遺構らしいものが残っておらず、城跡としてはイマイチなのだが、案内板には観世音寺の拝み堂跡に建てられたとあるので、城跡は近くにあるものの、この展望台は城地に含まれていないのかもしれない。こうなると地域の図書館にでも行かなければ調べようがないのだが、それはともかく、良好な野宿場を提供してくれたのにはありがたいような気持ちが一杯だ。
 今日は雲が出ているのであまり乾燥は期待できないが、薄日の差す中、露で濡れたテントを少しでも乾かしつつ、その間に今日のルートを決める。ルートを決め終えた後、テントがまだ濡れていたので、もう少しだけ乾かしながら周辺を更に散策してみた。すると近くの作業所のようなところに出勤してきたおじさんが、この時期テントは寒いだろうと声を掛けてきので、そうでもないですよと答えると、おおそうかと朗らかに去っていった。この冷え込みの中で野宿する為に装備を充実させてきたので寒くはないのだが、夜に降りる露はどうにもならないもので、いろいろしている間におじさんが出てきたような出勤時間帯に差し掛かってきているにもかかわらず、テントは乾かない。仕方がないのでテントを半乾きのまましまいこみ、出発した。
 竹崎ですでに佐賀県に入っているが、有明海を右手に望みながら国道207号線を北上していくと、いよいよ佐賀平野へと入っていく。その平野の西南端に犬山城という城を地図で発見し、国道498号線から目指して走ってみたが、城の周辺一帯が霧に覆われて現在地さえも正確に掴めない状態に陥ったので登城を断念し、迷わないように大きな道を選んで国道34号線に復帰した。
 佐賀市内へ向けて西へ走っていくと、市街地が近付くにつれてさすがに段々と交通量が増したが、多少うっとということはあったものの車線が多いので比較的快適だ。そういえばつい3日前にこの10kmほど北を横切っていったのだが、帰ってくるのにこれほど時間がかかるとは思わなかった。佐賀や長崎は入り組んだ海岸線なのである程度の覚悟はしていたが、予想よりも海岸線が長かったということだろう。
 そうこうしているうちに前方に気球が見えてきた。それも1つや2つではなく10数個も飛んでいる。そうか、そういえばバルーンフェスタなる催しが行われているという事をニュースで見たことがあるが、場所は佐賀だったのか。しかも、ちょうど訪れた時にやっているとは運がいい。
 バルーン達が後方になると、いよいよ佐賀市内へと入ってきている。かつては肥前の熊とあだ名されて5国2島に君臨した龍造寺氏と、幕末に倒幕派4藩の一角として重要な役割を担った佐賀藩それぞれに所縁の深い佐賀城まではもうすぐだ。国道34号線から国道208号線に入ってぐるっと道なりに曲がっていくと、佐賀城の南へと到達する。そこで左に折れて堀を越えたところが佐賀城だ。
 この城も他の市街地に埋もれる城と同じく、県立の博物館や美術館、県庁などの敷地となって城としての遺構は多くない。姫路城や彦根城のように平坦でない地形は流用しにくいから遺構が残りやすいが、平城の場合は平坦なだけに絶好の官公庁用地として流用されてしまう宿命にあるようだ。まだ佐賀城の場合は、幅のかなり広い堀と城門が僅かながらでも残っているのが救いか。近々歴史に関する資料館が城跡に建つようなので、数年後には今よりも城跡としての貫禄が付くだろう。またいずれ訪れたい。
 城を軽く散策した後は、せっかく県庁所在地に来たので県立博物館に寄ってみる。最近県立の博物館に寄るのが慣習のようになってきているが、この博物館は常設展示が無料で見学でき、文化施設としては理想的だ。県立といえばちょっと敷居が高いような気がするが、無料なら気軽に寄れるし子供達も遊びに来たりして自然と興味を持つかもしれない。維持するほうとしては大変だろうが、本来勉強とは肩肘ばってするもんじゃなく、興味のある分野に対しての素直な知的欲求が原動力になる。その根本になる興味を持つ機会を増やすということは非常に意義のあることだし、自分みたいに他所から来た人間でも素直にその地方に対しての知識を増やせるというのは、見えないプラスの効力があるのではないだろか。
 市街地にしては比較的車が少なくて走りやすい佐賀市街から、まっすぐ北東に県道51号線と国道34号線を乗り継ぐと、吉野ヶ里遺跡が見えてくる。邪馬台国論争にも重要な役割を持つこの巨大遺跡は、復元された建物が遠目からでも確認できるほど存在を主張しており、静かに時を過ごす遺跡が多い中、異例ともいえる存在感がある。観光地としても有力なところで、訪れた日も修学旅行やツアーの観光バスがたくさん来ており、遺跡内も当然人が多いので遺跡をゆっくり散策するという雰囲気ではないが、その規模は一見の価値がある。
 遺跡から西にほど近いところに久留米がある。久留米は福岡になるからどれだけ佐賀が小さいかがわかるが、なぜこのような形になったのかといえば、佐賀藩の幕末の活躍が大きいらしい。小学校の時に地図を見て、なんでこんなややこしい形に長崎と佐賀が分かれてるんやろと思ったが、廃藩置県後に県を統合していく過程で、佐賀藩の形をそのまま残すように佐賀出身の政府高官が強く主張した結果のようで、歴史の産物のひとつということだろう。
 久留米には江戸時代に有馬氏の居城だった久留米城があるが、昼時になっていたのでそそくさと市内のファミレスで昼食を済ませ、今は神社となっている城へ向かった。城は内堀と本丸の石垣を残してはいるが、二ノ丸と三ノ丸は市街地化してしまっている。城内を散策して神社に併設されている有馬記念館に立ち寄った後、次に向けて出発しようとした時、ちょっとヤンキーチックな格好をした兄ちゃんに声を掛けられた。兄ちゃんは青森出身のトラック運転手で、今日は休みなのでブラブラしているらしい。大阪の運転は荒いから怖いわみたいな世間話をしていると、この久留米にも宿泊できる健康ランドがあるという情報を得た。しかもなんと1300円で泊まれるらしい。よっしゃ、今日の宿は決定やね。
 久留米から交通量の多い国道3号線を北上して鳥栖を過ぎると、左手に大宰府防衛の為に大野城とともに築かれた基肄城跡のある基山があるが、麓は細い道が入り組んでいてどれが基山に通じているかわからず、時間の関係もあって断念せざるを得なかった。
 どうしようかと地図を見ると、基山から東へ真っすぐ行った小郡市に城山公園という場所があり、名前から確実に城があるだろうと訪れてみた。この城山は、正式には花立山と呼ばれているが、城の名前は山隈城というらしい。この日は天気も良くて家族連れがピクニックなどに多く訪れていたが、山全体が公園となっている為、当然山頂まで通じている車道などはなく、麓から徒歩で行かねばならないようだった。遅い昼食を摂った後で体も重く、これから秋月を回って久留米に戻ってこようとすると、登山している時間はない。基山に続いて断念せざるを得なかった。
 小郡からは、隣の大刀洗へ入って国道500号線、国道322号線と乗り継ぎ、古処山の西南麓にある秋月を訪ねた。国道から川沿いの1車線しかない道を遡っていくと、秋月の目鏡橋が出迎えてくれる。ここからが中世以来の城下町の入口だ。武家屋敷独特の質素な趣がある街並みは今では観光スポットとなっているが、一歩外へと踏み出すと草が生えっぱなしなっている小さな市街で、その中心はもちろん中学校の敷地となっている秋月城だ。背後に秋月氏が詰として使った古処山城へと続く山塊を擁し、学校の校門として今も使われている石段は当時のままの姿を残して、中学校には似つかわしくないような重厚な雰囲気を持っている。近くには大手門も遺構として残ってはいるが、中学校の一部として使われている遺構のほうが今も現役であるという貫禄がある。
 秋月氏が拠った古処山城にも寄りたかったが、地図をどう見ても道がなかったので登るとすれば本気の登山しかなく、仕方がないので秋月を後にし、1.5車線ある旧八丁越のタイトなコーナーを楽しんで嘉穂町へと入った。ここには、島津氏の傘下にあって秀吉の九州征伐軍に対抗した秋月氏に対して、一夜城を築いて降伏させたという伝承を持つ益富城がある。城へは遺構のすぐ近くまで車道が通っているので楽に登る事ができ、近世初頭まで城として整備されていたこともあって主郭保存状態は非常に良い。伝承では、秀吉は周辺の障子などを掻き集めて白壁の代わりとしたが、それを再現するように本丸には張りぼての城が建っていた。この張りぼての脇から見る古処山方向の眺めは絶景で、逆に言えば古処山城からもよく見えたはずである。空に夕暮れの気配が漂ってきているのがより眺望の質を上げているように感じられるが、つまりは時間が迫っている事も指している。早めに久留米に戻らなくては。
 帰路は久留米の健康ランドを目指すのだが、来た道を帰ったのでは面白くない。そのほうが早く久留米に着くだろうが、健康ランドに泊まるとなれば時間には融通が利くので、国道211号線を南下し、県道52号線を挟んで国道210号線を西に行くルートを採った。しかし、案の定という予想通りというか、途中で渋滞に巻き込まれ、目の前で軽トラと自転車が接触するという事故を目撃しながらも久留米に着いたのは既に日が暮れる時間だった。
 そろそろオイルを交換しなければならない走行距離なので、似た住所を頼りにバイク屋の久留米支店を探して国道3号線沿いに南下していったが、広川まで来ても見当たらなかった。そこで店に電話を入れてみると、店はなんと久留米I.C.近くの国道210号線にあるらしい。正反対の方向に進んできたわけだが、いまさら国道を戻っていたのでは間に合いそうにない。店が久留米I.C.にということだったので、今日中にオイル交換するなら高速を使うしかなく、九州道を120km/h以上で北上してなんとかぎりぎり店に着いた。オイル交換をしている間、店の人に健康ランドはどこかと聞いたら、久留米にあるのを聞いた事がないという回答だった。店員は3人ほどいたが、店長を含め皆知らないらしい。もしかして変な格好の兄ちゃんに騙されたのかと思ったが、地図を見ると市街地の一角に湯の坂久留米温泉というのが記してあった。野宿3連チャンをするにしても風呂はどのみち入らなければならないので、最後の望みを託して向かう事にした。
 オイル交換後、バイク屋の横にあったファミレスで軽く食事を済ませ市街地の温泉へと向かったが、温泉のある場所は道が狭く入り組んでいて、着くのに少し時間がかかった。ようやく温泉を発見し、泊まれるか泊まれないかで用意も違ってくるのでとりあえず中に入って店員に聞いてみると、ここが兄ちゃんの言っていた1300円で泊まれる健康ランドだった。兄ちゃんを信じてよかった。さすが変な格好してただけのことはある。
 一旦バイクへ帰り、荷物をまとめて健康ランドに入ってみると、祭日前の金曜ということもあってかありとあらゆる所に人が溢れていた。風呂はそれほど一杯ではなかったが、もともと健康ランド自体が小さい事もあって、風呂から上がったときには既に仮眠室も映画の放映している部屋も満員で入る隙間がなかった。しかもこれらの寝れそうな部屋だけでなく、土産物売り場やテレビの置いてあるロビーのようなところも人で溢れかえり、寝場所の危機を感じた自分は、さっさと仮眠室から毛布を1枚失敬して通路のベンチを確保した。ひと通り今日の整理が終わる頃には時間的にそろそろ寝始める人も出てきていたが、その人達は通路に毛布やクッションなどを思い思いに敷いて寝ていた。読みは当たったなとひとりほくそえみながら、自分もベンチをベッドにして就寝した。
走行距離 263.36km

11/3
 健康ランドに泊まった時は、起きたらとりあえず朝風呂に入る。これが体温の上昇を早めて体を活動できる体制にする早道らしく、午前中の滑り出しが良くなる。加えてこの季節では、体に暖を取ることによって、朝方の冷え込みで寒い早朝の時間でも体はしばらく温かく、より都合が良い。この日も慣例のようになった朝風呂に入り、帰る客でごった返すロビーを早々に抜け、フロントでチェックアウトを済ませて玄関近くの駐車場の端っこで荷物をバイクに積み込んでいると、ぽつぽつと雨が落ちてきた。とりあえずバイクを立体駐車場の下に移動させて様子を見てみるが、どうやらこれは止む気配がなく本降りになりそうである。確かに天気予報でも天気が悪いような感じになっていたが、降りだしが予想よりも早い。今日は長い1日になりそうだと思いながら覚悟を決め、カッパを着込んで走り出した。
 健康ランド周辺が細い道であることは昨日分かっていたが、ぐるっと回って西へ行こうと方向感覚を頼りに進んで行くと、JRの踏切を1度南へ渡り、北へ渡り直してようやく国道210号線へ出た。最初は国道というのが分からなかったが、ここは昨日から通るのが3度目ということもあって、しばらく走っていると見覚えのある国道である事が分かった。ここから一旦久留米市街に戻り、国道209号線へと入って南下する。随分遠回りになったが、なんとか柳川へのルートに入る事ができた。
 国道209号線から羽犬塚で右に折れて国道442号線へと入り、道なりに国道208号線に合流して進んで行くと、そのまま柳川へと到着する。最初が手間取ったので1時間ほどかかってしまったが、何とか第1目標に到着する事ができた。しかし、その間は本降りとなった雨にずっと濡れっぱなしだったので、時間の割には衣服まで浸水するのが早く、午前中の、しかも10時前だというのにすでにビチャビチャになっていた。
 柳川城は学校の敷地などになっていて石垣も僅かしか残っておらず、しかもその石垣は学校の敷地内にあるらしい。観光名物になっている柳川下りは城の堀と用水路を巡っていくのだが、その堀や街の区割り、道路からは城だった地形が透けて見えるので、これはこれで推測する楽しみがある。しかし、バイクを止めてカッパを着たまま足早に散策しても満足いくはずがなく、途中で見つけた新装開店のコインランドリーに雨宿りと洗濯がてら駆け込んだ。ここで溜まった洗濯物を洗いながらルートの整理をし、靴を乾かす機械もあったので完全に浸水したブーツを乾かして一息ついた。
 ブーツと服が乾いたのと、1時間ほどゆっくりできたことで、雨にやられ気味だった気力も回復し、再出発して柳川から国道443号線を南関町へと走る。雨の日は地図をめくるのも一苦労で、地図が濡れないように雨宿りをしながらやらなければならない。雨の日は体力も気力も消耗が激しいので、ちょうど良い休憩にはなるのだが、当然のように行軍は遅々として進まない。
 南関町には鷹ノ原城という城があり、それを目指してこの町までようやくたどり着いたが、もうとっくに昼を過ぎているので、とりあえず道の駅おおむたに寄り、そこにあったレストランで食事をした。このレストランは2階にあって、ちょっと小洒落たレストランだっただけに、カッパでビチャビチャのまま入るのは気が引けたが、背に腹は代えられないと、まさに空いた腹のために覚悟を決めて入ったのだった。
 腹を満たしたところで、いよいよ目標の鷹ノ原城を探しに出かけたが、南関の市街地は小さいのに、肝心の城は市街のどこにあるかよく分からなかった。何度か市街地を行き来したが、相変わらずの雨で視界が悪かったのと、地図を充分に見れる状況ではなかったので、残念ながら断念して海岸の方へ出るべく西へと走った。
 国道208号線に戻り、少し交通量が多かったので大牟田の駅で案内板を見ながら休憩を入れ、風が強くなってきたのを気にしながら更に南下していく。道は荒尾から左に曲がって東南方向を向き、玉名辺りでは完全に東を向くようになるが、熊本に入る為に再び南を向く辺りに、西南戦争で激戦地となった田原坂の古戦場がある。
 田原坂は、熊本城の北西約15kmのところにあり、熊本から続く台地の北端にあたる。熊本城を築城した加藤清正は北の入口としてこれを重視し、台地に道を造成する際に掘り込んで凹型の道とした上、更に蛇行させて守るに易い地形にした。この軍事上の着眼点の正しさが証明されたのが西南の役の時で、熊本城に籠城する熊本鎮台軍の援軍に赴いた政府軍は、この田原坂で大きな被害を受け、結局最後まで本道は抜けなかった。
 その政府軍を阻んだ坂は今でも健在で、田原坂公園に向かう道は曲がりくねって崖がせり出している。公園には大きな碑と資料館があり、この日は土曜日ということもあって、時間が遅い割には観光客がボチボチいた。雨の中、濡れないようにさっさと碑を写真に収めて慌しく田原坂資料館に入ったが、展示内容は整理されていてとても見やすく、落ち着いて見学できた。
 田原坂を出発する頃には既に暗くなり始めていたが、時間のせいというよりも厚い雲の影響が大きい。良い天気なら、行ってみたかった菊池辺りまで足を延ばすぐらいはできるのだが、一時より勢いは衰えたとはいえ依然雨が続くこの状況では、今日の宿と考えている、大野城で聞いた熊本の健康ランドを目指すしかない。その健康ランドは優祐健康ランドという名で、熊本市の南郊にあり、市境になっている緑川のすぐそばにある。国道208号線に戻って南下すると、すぐ国道3号線に合流し、そのまま道沿いに行けば、熊本市街を縦断して優祐健康ランドがあった。うっかりして1度通り過ぎてしまい、Uターンする羽目になってしまったが、こんな雨で視界の悪い日には、これだけ分かりやすい場所に立地しているというのはとてもありがたい。
 この日も土曜ということで、建物内には人が多かったが、雨に濡れた体を温めるために早速風呂につかり、ようやく落ち着く事ができた。ここの風呂には数種類の湯船とサウナがあり、食事もレストランと軽食の2つがあって、それらはすべて鍵の番号で決済できるという便利なシステムで、昨日のところとは違ってかなり大きい規模の健康ランドだ。人が多かったので仮眠室も当然一杯だったが、早めに行くと、こちらもなんとか1つを確保して眠る事ができた。丸1日雨というのは、滋賀での10日間や、北日本へ行った3週間の間にもなく、今回が初めてだったが、なんとかその疲れも取ることができそうだ。
走行距離 149.92km

11/4
 この日は、昨日とうって変わって朝から快晴となった。
 7時前に起床し、健康ランドならではの朝風呂に浸かって目を覚まし、7時半ごろに出発しようとすると、ロッカーの上で乾かしていた冬用のグローブがなくなっていた。昨日1日降り続いた雨でぐっしょり中まで濡れていたので、ロッカーの中では乾かないと思い、上に置いていたのだが、フロントで拾得物としても届いていないらしい。だれかが持ち去ったのか、悪戯で捨てられたのかは知らないが、あのビチャビチャのグローブをよく触れたなと思う。自分で触るのもじっとりとしてて嫌な感じやったのに。
 それはともかく、とりあえず手持ちの夏用グローブで頑張るしかないが、指先の出たグローブは11月にはかなり厳しい。早急にどこかのショップでグローブを買わなければならないが、財布にもなかなか厳しいものがある。
 荷物を積み込んでエンジンを始動し、暖機を待っている間にふと前の柵を見ると、いつもより妙に反射するヘッドライトの光が少ない気がした。念の為に前を覗き込んでみると、なんと2灯あるヘッドライトのバルブの内、1つが息絶えていた。とりあえず1灯は生きているのでそれほど緊急を要する事態ではないのだが、片方の寿命が来たということは、もう片方も寿命が近いということなので、帰るまで頑張ってくれることを祈るしかない。
 まだこんな時間では熊本城も入れないので、ほど近い宇土城を目指して南下し、国道3号線から右折する。宇土には宇土古城と呼ばれる中世の城と、小西行長が築城した近世初頭の宇土城、そして江戸時代の細川支藩の陣屋と3つの城があり、それぞれが非常に近い位置にあるので、散策するには非常に助かる。
 まず近世初頭の宇土城を早朝に墓参りに来ていたおばちゃんと挨拶を交わしつつ散策し、次いで少し迷いながらも西にある西岡台の古城を訪れ、残念ながら発掘調査で本丸付近には入れなかったものの、千畳敷をブラブラとして熊本の遠景を楽しみ、帰りに陣屋付近を通った。陣屋は近世宇土城の一角にあるらしいが、周辺は民家が立て込んで道が非常に狭く、ここという場所は分からなかった。だが、そのどれもが田舎町に忘れられているような感じで、変に整備されていないだけに素朴な趣があってなかなか良い。
 宇土から県道を使って国道218号線に入り、通潤橋を目指すのだが、今日は日曜日だけにできるだけ早い時間に見て回り、人出が多くなる前に退却したい。途中、霊台橋という日本一長い単一アーチ橋があって寄ってみたが、すでに観光バスが止まっており、なかなかの人出になっている。霊台橋は確かに日本一の長さを誇っているが、その半分ぐらいは土台で川に架かっているという状態とは言いがたく、ちょっと想像していたイメージとは違う感じだった。
 霊台橋から通潤橋までは15kmを切るぐらいだが、標高も高くなってきているのか、空気がかなり冷たい。今更ながら夏用グローブであることが辛いものの、快調な道はそれを紛らわせてくれる。
 そうこうしているうちに、矢部町の小さな市街を抜けて通潤橋へ到着した。幸い自家用車の観光客だけでバスなどの団体客はまだ来ていないようだ。
 通潤橋は通行用の橋ではなく、江戸時代に造られた農業用水路の為の橋で、今なお現役であるというのは凄いが、現役であるが故に補修も必要で、訪れた日は補修の真っ最中だった。日曜の午後に放水があると地図に書かれてあったが、当然それもないらしい。なんやったら正午までおったろかいという意気込みも少しはあったが、当初の予定通り、昼までに熊本に帰ることになりそうだ。
 通潤橋のすぐ横には、阿蘇大宮司として阿蘇山麓近辺に勢力を誇った阿蘇氏の支配した岩尾城があったので、通潤橋の周辺散策のついでに回り、国道445号線から熊本へと向かった。途中、前日の雨で崩壊したところが1ヶ所あったので、かなり山の中を迂回させられたが、舗装されていない一部分を除いては、それほど整備されてないわけでもなく、ほとんどの区間が2車線だったので、少し倒して遊べた。
 国道445号線は通潤橋のある矢部町から隣の御船町に入り、やがて山を下って御船市街へと出る。この御船には、阿蘇家臣として縦横の外交手腕を振るった甲斐宗運の居城御船城があり、探そうかと思っていると、ちょうど国道に案内板が出てきたので都合がよかった。城自体はこじんまりとした小山の部分が残っており、その山上は削平されていて本丸の跡だったと思われるが、この平坦な場所だけでは城として非常に小さいので、当時は麓にも郭があったか、のちに市街地が山を削ってしまったかのどちらかだろう。
 御船町まで来ると、もう熊本市まで10kmを切っている。南西から熊本市街へ入っていく国道266号線に乗り換え、途中給油を挟みつつ熊本城を目指す。熊本の市街地は、日曜ということもあって空いているところと混んでいるところがはっきりしていたが、当然観光名所である熊本城周辺は、観光バスを始めとした観光客の車が多い。その中をそそくさとくぐり抜け、駐車禁止でも二輪を除くというのがあればどこにでも止められる長所を生かして、駐車場に行かずに城門からほど近い場所に止めて登城した。
 熊本城は、説明するまでもなく加藤清正が築城した城で、それまでにあった2つの城を包含する巨大なものながら、姫路城のような優美さが目立つ城ではなく、武骨さが滲み出るような黒を基調とした城で、いかにも武辺で鳴らした清正らしい。残念ながら天守閣は西南の役の際に焼失したが、城内にはまだ多数の建造物が残っており、城としての存在感は他を圧倒している。この日は日曜で人出が多く、落ち着いて散策できなかったのは残念だったが、時間をかけて隅から隅まで歩き、存分に堪能させてもらった。
 トラブルがありながらも早朝に健康ランドを出て通潤橋まで足を延ばし、熊本市街に帰ってきてメインディッシュの熊本城を味わった事で、とりあえず今日の仕事は終わったというような達成感があった。午後からはボチボチと行ける所まで行き、野宿と健康ランドが続いているので、今日は久しぶりに布団で眠りたい。
 熊本城の外周をぐるっと回って熊本駅前と蓮台寺橋を通り、昨日も通った国道3号線へ出て、そのまま南下していく。宇土市の外れのコンビニで遅めの昼飯を食べながら、郊外のコンビニ特有の広い駐車場を借りて3日振りにテントを乾かしたが、幸いカビなどの発生はなかったのでひと安心した。天気の良い中、ゆっくりと昼食を摂って悠々と出発し、八代で八代城を軽く見た後、球磨川沿いに走っている国道219号線で上流へと遡っていった。
 人吉へと続いているこの国道219号線は、延々と球磨川の渓谷沿いを走るワインディングロードで、適度なコーナーと少ない交通量、ダイナミックな景色が合わさってがとても心地いい。八代から人吉までの1時間弱は至福の時間だった。
 人吉は城があるというのもあるが、友人2人の田舎がここにあるらしく、全然地元と近くないのだが、なんとなく身近に感じてしまう。市街地に入っていくと、そこそこ高い建物はあるが、僻地の都市という感じで、どこかのんびりしていて良い。その市街地から折れて球磨川を渡っていると、目標だった人吉城の石垣が見えてくるが、その石垣を左手に見ながら、一旦公園となっている城の前を通り過ぎて山の方向へ入っていくと、中世の人吉城跡に着く。この辺りはそれらしい遺構が若干残っているだけで、あまり散策できなかったが、Uターンして近世の人吉城を訪れてみると、平山城としての多くの石垣を残しつつ、芝生が敷かれてとても整備されている。しかも無理やりに公園としているわけではなく、元の遺構をそのままに残した上で整備されているので、城好きにとっては非常にありがたい。
 人吉の市街地でバイクショップに寄ってグローブを探してみたが、財布が痛いことになってしまうので断念し、気合で寒さを乗り越える事にして、今度は球磨川沿いを下って西へ戻っていく。途中で国道219号線から県道27号線に入って西へとショートカットし、海の目前で佐敷城の案内を見つけたので寄ってみた。
 佐敷城に登った時には、今にも太陽が沈みそうな時間となっていたが、野坂の浦という小さな湾越しに夕日が落ちていくのは絶景で、普通に太陽が高い時刻に登るよりも、はるかに印象は強かった。こういう見通しの利いた景色は山城でしか味わえないが、この佐敷城は中腹まで車道が付いていて、登るのに時間がそれほどかからない。確かに山城は自力で苦労して歩いて登ったほうが感動や印象は強いのだが、今回は時間が時間だけに徒歩なら断念していたところだった。江戸時代初期まで残されていた城には、なかなか豪壮な石垣もあり、かなり素敵な城だったので、車道が整備されていたことには感謝感謝だ。
 佐敷から国道3号線に出て南下していくと、津奈木に入る頃にはすっかり日も落ちていた。とりあえず宿を探すべく津奈木の駅に行ってみたが、そこには何もなく、ほど近いところに津奈木温泉というのがあったので、そこで宿泊できないか見てみたができないようだった。仕方がないので水俣あたりで宿を探すことにして、電話ボックスを道沿いに発見して電話帳をめくると、ここからそう遠くない湯の児温泉というところに宿がたくさんあった。温泉宿は素泊まりしても高い事はわかっていたが、ここ4日間ほどは宿泊費に金がかかっていないので、思い切って電話してみると、斉藤旅館というところにあっさり予約が取れた。
 宿の予約が取れたので、とりあえず水俣市街で食事を済ませ、暗く曲がりくねった道を温泉へと走った。なかなかアップダウンのある道を越えて海岸のほうに下りてみると、温泉街にはすぐ到着できたのだが、泊まる斉藤旅館が見当たらず、マフラーの熱を腿に感じながら低速でウロウロと探していると、犬の散歩をしているおじいさんに声を掛けられた。同じバイクがウロウロしていたのを多分見ていたんやろうけど、楽隠居風のおじいさんも旅館を探しているのがわかっていたようで、旅館の場所が分からないなら教えましょうかという感じだったが、なんと斉藤旅館を探していると言おうとしたその瞬間に旅館の名前をド忘れしてしまった。するとおじいさんは慌てず、温泉街の端っこから旅館の名前を挙げてくれ、お陰で斉藤旅館の場所も分かったが、おじいさんは旅館関係の人やったんやろね。でないとあんなに詳しくないやろし。
 おじいさんの説明によると、斉藤旅館は1度山側に戻ってもう1度海際へ下りたところにある病院の近くらしい。どうやらこの温泉街は、海を挟んで入り江の向かい側にもあるようで、おじさんの説明を反芻しながら道を進んで行くと、海に下りたところに病院らしき建物があり、その先にようやく旅館を発見した。
 この斉藤旅館は木が基調の落ち着いた感じの建物で、改装して間がないのか、比較的木が新しい感じだった。温泉は塩気のする湯で、入浴時間には一応制限があったが、少々オーバー気味に入っても特に何も言われず、ゆっくりと楽しめた。ここのところしばらく野宿が続いていたが、ようやくこれでひと息ついたという感じで、やっぱり寝るときは布団が一番落ち着くという事をつくづく実感した。
 
走行距離 274.88km

〜後編へ続く〜
No.19
(中編)
No.19
(前)
No.19
(後)