10/24
 試験も無事終わって、ふと気付くと10月も終わりになっている。冬が来てしまう前に南日本の1周に出発しなければいけない。今回は期限がない代わりに、寒くなっていく気温に耐えられるかどうかだ。その為には、防寒準備をしっかりとしていかなければ。
 この日の出発は、昼を過ぎてからになった。北日本1周から帰ってきて以来、だんだんと寝る時間が遅くなっていき、試験の前日も3時間しか寝れなかった。出発の前の日も、遅くに寝て昼過ぎに起きるという生活サイクルを変えられなかったので、当然いつもより早く起きたにもかかわらず、昼前だった。しかも遅く出発したのに、三木まで行って知り合いの家でさらにグッタリし、そこからようやく舞鶴道へと入った。今まで一番だらけたスタートやね。
 舞鶴道から京都縦貫道に移ってドン突きまで行き、宮津市街を北上して丹後半島に入った。会社の先輩や後輩と湯原温泉に行った時のように、あわよくば鳥取まで今日中に進もうと考えていたが、この時点ですでに4時を過ぎ、最初考えていた行程を走ることはどう考えても無理になっている。
 伊根の舟屋関連の施設に寄る予定だったが、もうこの時間ではゆっくり見られない。この辺りなら日帰りでも来れるので後日来ることにして、先を急いだ。
 丹後半島は小さいようで、ぐるっと海沿いを周ると案外距離がある。だが国道178号線はところどころ1車線になっているものの、車も少なく良いワインディングコースだ。
 時間が5時を過ぎる頃、ようやく丹後半島の突端、経ヶ岬へと着いた。国道178号線から海のほうへ右折し、ちょっとアップダウンのある道を1kmほど進んだところに駐車場がある。さすがに観光客の姿はないし、売店も閉まっている。もっとも、売店はもとから閉まっているような雰囲気だったが。
 経ヶ岬の灯台へは、ここから更に山道を10分足らず歩いて行かなければならない。案内板には、建設当時は難工事だった事が記されていたが、なかなか険しい山道だったので十分想像できる。灯台から晴れた日には能登半島まで望めるらしいが、今日は曇天で霞掛かって能登半島の方向は水平線のように見えている。ただ、雲が厚くて少し赤いだけの夕暮れも、それはそれで日本海らしくて趣がある。
 経ヶ岬からは海沿いの国道178号線に戻り、淡々と行ける所まで進む。琴引浜を過ぎる頃、辺りは完全に真っ暗となっていた。そろそろ宿を手配せなあかんと思い、少し市街地のある網野町で晩飯を食べ、警察署の前の電話ボックスで見つけた宿に電話してみると、幸運にも1軒目で予約が取れた。宿は守源という名前で、風呂が檜風呂の良い感じの宿だった。今日は体が疲れているし、ゆっくり眠れそうだ。眠れば、明日から生活のサイクルも戻るだろう。
走行距離 232.48km

10/25
 この日、起床したのは7時。昨日あまり進めなかったので距離を取り戻そうとしたのもあるが、昨日は昼間から眠気を我慢し、しかも久しぶりにバイクに乗った疲れもあって、風呂に入った後は起きている事ができず、かなり早くに就寝した結果でもある。
 7時半頃に荷造りを終えて玄関で清算しようとすると、ご主人はまだ布団に入ってはったので、申し訳なかったが起きてもらい、寝癖のままで清算してもらった。宿の感じや風呂の造りから、料金はそこそこ高そうと思っていたが、4000円と意外にリーズナブルで少し得した気分だ。
 とりあえず今日真っ先に向かうのは、網野町からほど近い峰山だ。網野町にも浅茂川の湊を押さえる下岡城というのがあり、下岡という地名が残っているので大体場所も分かるのだが、日帰りで来れる範囲はまたすぐにでも来れるので、昨日の距離を少しでも挽回するつもりで先を急ぐ。
 吉原山城は、地図には権現山城とあり、案内図によっては峰山城ともされているが、現地は吉原山城となっているのでちょっとややこしい。なかなか遺構をよく残している山城で散策のしがいがあるが、麓にバイクを置いて登ったのに、すぐ近くまで車道が開通していた。時間のロスと言えばロスだが、古城の雰囲気が存分にあったし、まだ世間の活動時間ではないのでまけておくか。
 峰山から市街を迂回して国道312号線へと入り、これまたほど近い久美浜を目指す。国道312号線をJR久美浜駅を越えて右折すると、駅から続くあってないような市街地がある。久美浜には中世に松倉城という城があり、維新後には久美浜県が成立して県庁が置かれたが、これだけ街が小さいということは、確実にこの辺りに両方あったはずだ。まず城のほうを捜し求めていったが、久美浜小学校の門のところに案内板があり、それによるとこの小学校の敷地が県庁跡で、しかも久美浜県の県庁を造成する際に、城のあった場所が大幅に削平されて遺構は破壊されたらしい。しかし、他の場所で見た案内板には城山公園というのがあり、遺構の有無はともかくとりあえず行ってみようとあちこちうろついたが、公園すら見つけることはできなかった。ここも日帰りリストに載せておかねば。
 久美浜から国道312号線へと戻ると、そこからしばらくの間は国道178号線と重複する区間になっている。そのまま西に向かって行くと、豊岡で南へ折れる国道312号線と別れを告げ、国道178号線単独の道路となって延々と曲がりくねりながら海岸沿いを鳥取まで繋がっている。途中で建て替え話が出ている余部鉄橋で1度休憩を入れ、浜坂の城山公園へと向かった。
 ここは経ヶ岬と同じように国道から海の方向へ道が分岐し、そのまま一本道で芦屋城跡の公園へとつながっている。迷う余地がないだけに、訪れる人にとっては非常に楽な城だ。だんだんと急になっていく坂道を上がりきった中腹には駐車場があり、そこには車が数台止まっていた。駐車場の端に写生している初老の人がおり、景色がいいのかなと近くまで行ってみると、眼下に港が広がる絶景だった。徒歩で城を散策して駐車場まで戻ってきてみると、車が1台増えてベンチで若いカップルが弁当を食べながら勉強していた。変な人やなと思いながら出発の支度をしていると、更に車が1台入ってきて、どうやらここで弁当を食べるつもりらしい。そうか、ここは弁当スポットなんやな。確かにこんな快晴の日に、この景色を見ながら弁当を食べたらどんなに美味しいやろう。それも、から揚げ弁当なら文句なしやな。
 国道178号線をそのまま西へ進んでいくと、いよいよ鳥取県へと入り、国道9号線に合流する。5年前、就職してすぐの6月に来たのが懐かしい。2年前にも来ているが、あの時は時間がヤバイと言いながら超特急で砂丘だけにタッチして過ぎていっただけに、今回はじっくりと鳥取を堪能したい。
 鳥取は最初から持っていた近畿の地図の端なので、これが切れてしまうまでには中四国の地図を買わんとあかんなと思いながら国道を走っていたが、国道9号線沿いに書店はなく、昼飯ついでにガストの周辺も回ってみたが、ここも空振った。書店ばかり探して時間を潰すのはもったいないので、旅路の途中に書店があることを祈って鳥取市街を後にした。
 鳥取から国道9号線を西へ少し行くと、湖山池という池とは名ばかりの巨大な水たまりがある。この池の岸には防己尾城という城があり、これは5年前に寄ろうと思って果たせなかったところだ。アクセスは、国道9号線から県道190号線に入って南下するだけという至ってシンプルなルートで、湖山池の岸沿いをしばらく気持ちよく走っていたらあっという間に着いた。この城は岸から張り出すこんもりと盛り上がった小山に築かれ、秀吉の鳥取城攻めの時には大いに機能して秀吉軍を悩ませたという水城だ。ということは、城跡が整備されていれば池のいい眺めが城跡からは広がっているはずだ。そんな期待をしながら標高のあまりない城に登ると、予想通り鳥取市街まで望める景色が広がっていた。おまけに本丸跡には展望台まで設置されていて、訪れる人のツボをつく配慮だ。鳥取、侮るべからず。
 湖山池から西へ行くと、5年前にも訪れた鹿野城がある。あの時は雨でろくに散策できなかったので今度こそはとの思いを胸に到着してみると、今回は石垣が部分的に崩れて立ち入り禁止になっていた。縁がないのかなと思って立ち入り禁止の表示の近くまで行ってみると、石垣の崩れはそれほど大きいものでもなさそうなので、こっそりと天守台まで散策して回ってみたが、大丈夫だった。
 鹿野から真っすぐ北上して国道9号線に戻り、しばらく行くと国道179号線との分岐に出くわす。このまま分岐していけば倉吉に着くので、途中で念願の地図を買いつつ、倉吉に入った。しかし倉吉に入った時には日が暮れかけていたので、打吹城があった打吹公園を時間と戦いながら散策して下りてくると、すでに夜の景色となっており、倉吉で名所になっている土蔵などはとても見て回れなかった。
 さすがに10月の終わりともなると日暮れも早く、北日本の時のように6時まで走り回ってから宿を探すようなことはできない。山陰で野宿は寒そうやから、これから宿探しの時間を繰り上げなあかんなと、打吹公園の麓の電話ボックスでそう考えながら宿を探していると、少し戻ったところにある東郷温泉で予約が取れた。辺りは完全に夜になっていたので、タンクバックで地図を確認する事ができない為、電話ボックスで倉吉から松崎までの道を覚えこんで出発した。
 心配とは裏腹に、倉吉から松崎までの道は一本道のような感じで、宿も松崎駅前だったのでストレートに着くことができた。宿は温泉旅館だけあって素泊まりでも料金はやや高めだったが、おじいちゃんとおばあちゃんが営んでいるとてもほんわかした雰囲気の宿で、古びれた宿の雰囲気もボロいといえばそれまでだが、独特の、するめをかみ続けたような味が出ていてなんともいえずか良かった。
走行距離 220.32km

10/26
 この日も出発は7時半前。北日本の時より日暮れが早くなって走れない分、朝にシフトして距離を稼ぎたい。
 東郷温泉から倉吉の方向に進んでいくが、途中に戦国時代の因幡では重要な位置を占めていた羽衣石城があるので、羽衣石川沿いを上流へと上って行った。羽衣石城はかなり峻険な山にあり、朝から飯も食べてないのにちょっとハードだったが、頂上の本丸部分には模擬天守も建ち、そこには入れなかったものの城としての体裁は整えられている。この羽衣石という名前は、天女伝説で天女が羽衣を掛けた石がこの山にあることから来ており、登山の途中に該当する岩があったが、そこにも石垣が積まれていた。中腹の山道にポツンとあるので、城があった頃は櫓ではないにしても、番所か何かの施設が建っていたのだろう。伝説など意にも介さない戦国時代の非情な空気がそこからは透けて見える。ちなみに昨日行った打吹城の名前は、天に帰った天女を呼び戻す為に、太鼓や笛を打ったり吹いたりした場所ということから来ているらしい。
 倉吉から、2年前に湯原へと向かった国道313号線を中国山地へと南下し、地図に載っている関金町の草幾山城へ向かったが、城があると思われる川の合流点近くの丘にはなんの案内もなく、近くを行ったり来たりしてみたものの結果は同じだった。だが、ぶらぶらしていると偶然関金町資料館というものを発見し、少し興味を持ってふらっと寄ってみると、愛想のない朴訥とした感じのおじいさんが掃除をしながら出迎えてくれた。この資料館は普通の民家を改造してできたと思われる小さなところで、江戸時代に大久保長安の事件に連座して倉吉に蟄居となった安房の里見氏に関する資料や、全通することなく廃線となった倉吉線の写真などが展示してある。その中に関金町全域の地図があり、念の為に確認してみるとやはり草幾山城は川の合流点付近にあるようだが、でも見つからんしなと思って他に目を移すと、関金温泉のすぐ近くに亀山城というのがあった。おっ、いいもん見つけたと草幾山城のかわりに行く事にして、資料館を後にした。
 県道45号線を来た方向に戻り、関金温泉街の適当な場所にバイクを止めて、頭上に迫る山へと向かった。山へは遊歩道が設置されていて城跡は現在公園となっているようだ。温泉街から50mほど登ると展望台に出たが、周辺は整備されて遺構の類は残っておらず、亀井城のことを記した案内板も木が古くなって表面が剥がれ落ち、半分程度しか読めなかった。歴史的に重要でも有名でもない小城は、やはり大事にされていないようだ。
 関金市街から再び県道45号線で西に進み、地蔵峠で県道44号線に移って日本海へと北上し、海沿いの国道9号線で西進する。大山を遠く左手に見ながら1時間近く進むと、米子市街へと到着した。ここは鳥取県の西端になる。去年の中国地方を1周した時は、境港を訪れた後、米子から高速にちゃっちゃと乗ったので米子市街に寄ることはなかったが、今回はソロなのでじっくりと米子城を散策するつもりで来た。しかし、米子城に着いて目にしたのは、石垣補修工事の為立ち入り禁止という文字。麓の辺りはブラブラできるのだが、山に入る遊歩道には柵がされていた。我ながら運が悪い。しかし米子は比較的すぐ来れる範囲にあるので、また機会を改めて訪れる事にして、再び国道9号線を西に走った。
 米子から西へ島根県に入ると、最初にあるのは安来町だ。たたらの町として有名で、確かあの安来節発祥の地でもあったと思うのだが、残念なことに肝心の安来節が思い出せない。どんなんやったかなと思案しながら国道9号線を走っていると、この町の中海側へ突き出したところに十神山というのが見えてくる。うっすらとした記憶の片隅に確か十神山城というのがあったと思われるが、確信はない。一応安来駅で確認してみたが、市民が散策に訪れる場所という表記だけで、城と確定できる材料はなかった。海に突き出しているこんもりとした十神山は、標高も手頃で、城があったなら海城としてかなりの防御力であると思われるが、確信がないのに無駄足を踏むわけにはいかない。広瀬にも松江にも行かなあかんことやし、先を急ごう。
 安来で国道9号線から県道45号線に入り、安来市街の外れのコンビニで昼食を済ませて先へ急ぐと、広瀬町にあの尼子氏の居城であった月山富田城がある。ここに残る郭や石垣群は、一時山陰の覇者となった尼子氏の居城らしく広大な規模があり、散策のしがいがある。石垣の復元工事中で全てをくまなく見ることはできなかったが、中腹の居館政庁部分、山上の詰である本城部分とも申し分ない石垣と遺構を残し、城好きにはたまらない城だ。さすが五大山城に数えられているだけはある。
 月山富田城に満足しながら山を下り、隣接する広瀬町の歴史民俗資料館で尼子氏関連の資料を見学した後、国道432号線でこの城にかわって江戸時代の首城となった松江城に向かう。この広瀬から松江へと山を越えていく道は、途中まではとても気持ちの良い2車線のワインディングロードだったが、突然道が行き止まりになり、その横から旧道が申し訳無さそうに続いていた。うっかりガンガン攻めていれば、そのまま2車線の終点が人生の終点になっていたかもしれない。
 松江は宍道湖の東岸にあり、多くの川と堀が街を横切るとても穏やかな印象のある街で、小泉八雲に関する施設もあって、観光客にも人気のある街だ。遠く見える天守閣を目指して松江城へとたどり着いたが、この日も平日というのに駐車場は観光バスやら自家用車やらでごった返していた。バイクはどこにでも止められるので駐車場がいっぱいでも関係ないが、人の多さで城の散策に集中できないのはしんどい。松江城には現存する天守閣のひとつがあるが、天守閣も人が多く、特にツアーに多いおっちゃんやおばちゃんはしゃべり倒してうるさい。だが、天守閣以外の部分は芝生が敷かれていたりするだけで、特に城マニア以外は興味がないようなところだったので、じっくり石垣や縄張の様子を見て回れた。
 松江を出る頃にはかなり日も傾いていたが、今日中に回りたい所がまだ1ヶ所ある。松江から国道9号線を宍道湖沿いに進み、陽気なおっちゃんがいたガソリンスタンドで給油して国道54号線に入り、そのまま15kmほど進んでいくと三刀屋町に入る。ここには尼子氏時代に尼子十旗と呼ばれた支城の1つがあるはずだ。それらしい場所を探しながら国道を進んでいると、なんと右手の山に三刀屋城とでかでかと書いた案内板があった。おうラッキー、探す手間が省けたわと三刀屋城へ進んだが、日は完全に暮れ、散策がぎりぎりできるぐらいの明るさしかなく、もしあの案内板がなかったら、多分暗闇の時間になってしまって探し当てる事ができなかっただろう。正にラッキーだ。
 木がほとんど無く、斜面に無数にある腰郭が確認できて感動した三刀屋城を後にして、今度は斐伊川沿いで国道9号線へと戻る。当然のことながら日は既にどっぷりと暮れ、すっかり夜の風景になっている。とりあえず宿を探そうと出雲市の駅で電話帳をめくり、岩本旅館という宿で予約が取れた。この旅館は和風のビジネスホテルという感じで、構造はビジネスホテル、部屋の中は畳敷きというスタイルで、部屋はなかなか居心地が良く、従業員の人も優しくしてくれたのだが、料金が普通のビジネスホテル並みだったので財布には優しくなかった。
走行距離 229.28km

10/27
 この日、出発したのは朝8時前。
 前日に出雲市駅で鳶ヶ巣城というのを発見したので、北に上がって国道431号線に行くとすぐに見つかった。しかし、標高が高いのに下から全て徒歩で登らなければならなかったので、今日中に山口に入っておきたい身としては散策を断念するしかなかった。
 鳶ヶ巣城に後ろ髪引かれながら、今度は南西方向へ走って国道を越え、JR山陰本線沿いに出る。山陰本線には出雲神西という駅があるが、この辺りには戦国時代の尼子十旗と呼ばれる支城網のひとつである神西城という城があった。信長の野望にも出てくるので馴染み深いが、一般には無名なので地図にはプロットされておらず、出雲神西の駅で案内板か何かないかと訪れてみて愕然とした。無人駅なのはともかくとして、周辺は民家が少しと田んぼが大量にあるだけという典型的な田舎の駅で、案内板の類というのはあるはずもなかった。
 失意の中、神西から県道277号線を経由して国道9号線へと戻り、次の目標石見銀山へと向かった。距離にして30km強。流れにもよるが、だいたい40分から50分といったところだろうか。この日は日曜だったが、国道9号線は時間が早い事もあって快調に流れている。この勢いなら予想よりも早く銀山に着きそうだ。
 石見銀山に着いてみると、さすがに土曜日だけあって観光バスや家族連れの車で駐車場は結構埋まっていた。代官所の形をした銀山資料館で、いろいろ説明してくれるボランティアから少し離れ、うっすらと説明を聞きながら自分のペースで見学して回り、いよいよ間歩と呼ばれる坑道を見学しに谷の奥へと入っていった。現在公開されている坑道は龍源寺間歩といい、石見銀山の中でも2番目に大きいものだが、そこへ向かう道の両脇には這ってしか入れないような坑道が無数にある。これだけの数を手で掘っていたというのは凄いことだし、昔どれだけ隆盛を極めていたかがわかる。
 龍源寺間歩を見学した後、石見銀山争奪の主戦場となった山吹城へ登っていく。銀山川沿いの道から登山道が延びているが、登って行くとだんだん急峻になり、途中からは階段がほとんどとなるほどの勾配で、さすがに膝が笑いそうになった。階段の途中で猿の群れと出くわし、驚いた猿が一斉に散っていったが、その物音にはこちらも驚かされた。さすがにこんな山奥では何がいるかわからない。まして中国山地の山並みとつながっているので、野性の猿の群れを見た後では冬眠前の熊なんかがいてもおかしくないと思えるし、もし襲われたとしても、こんなところでは誰にも知られないし助けもあり得ない。それはさすがにちょっと困るので、一応念の為に襲われないよう、わざと大きめに音を立てながら歩いたり鼻歌を歌ってみたりした。熊は鈴の音でも避けるので音を立ててれば充分だが、そんな事をしだすとなんだかテンションが上がり始め、気付いたら本気モードで歌ってみたりしていた。後で考えると、熊には有効かもしれないが、人間に聞かれたらえらい恥ずかしいことになっていたはずだ。人に会わなくてよかった。
 山吹城を下りて来ると体力を結構消耗していたが、天気も空気も良い為かそんなに気にならない。ここでなんだかんだと長時間の滞在になっているので、休むことなく石見銀山を後にし、県道31号線で峠越えをして国道9号線へと出た。
 国道9号線を西へしばらく行くと福光という場所がある。ここは昔、毛利元就配下の石見吉川家が居城とした福光城があったところで、戦国時代はそれなりに重要な土地だったはずだ。しかし、国道9号線沿いに福光という交差点名があるだけで、特に城だのなんだのという表示はない。一応何かあるかと思って石見福光駅にもよってみたが、集落がポツンとあるだけで、駅のどこにも表示は無かった。当時は城下町もあったはずだが、400年もすればこうまで田舎になってしまうものなのか。
 福光のある温泉津町から淡々と西へ向かっていくと、今度は浜田へと着く。しかし地図には、浜田市街に入る前に笹山城というのが国道近くに記されている。とりあえず行っとかなあかんなと周辺まで行ってみたが、小さな台形の山はあったものの、登山口を見つけられず、下府の駅でも特に案内等はなかった。そういえばこの下府という地名、すぐ近くに国府という地名があるので、その下という意味で下府となったのだろう。つまり1000年前には石見の国府がここにあったわけだが、福光と同様、月日は流れて今はただの田舎になっている。
 浜田市街へは、浜田道路を通らずにそのまま突入し、ほぼ国道沿いにあった浜田城へと立ち寄る。これだけ国道から近いと探す事もなく楽だ。浜田城跡にはまず濱田護国神社があり、その奥には石見人と幕末浜田藩の苦悩を記した司馬遼太郎の随想碑が置かれ、本丸にはきちんと石垣も残っている。この日は俳句の会か何かがあったらしく、中年から初老の方たちが10人ほど散策していたが、城跡の情景としてはいい感じだ。
 浜田市街で特にこれといった飯屋が見つからなかったので、浜田を出たところの国道9号線沿いの喫茶店で昼食を摂り、再び南西へと国道を進む。この日本海側の道には何回か来ているが、全くの1本道でひたすら海を右手に見ながら進むだけだ。のんびりしていいのだが、時にはバイクなのに眠くなりさえするほどだ。そうしているうち、周布という地名を見つけた。これで少し目が覚めた。周布で思いつくのは、幕末の長州藩で改革派が失脚した時、家老であった周布政之助だったかが切腹させられたということだ。家老職にあったということは、毛利家中でそこそこの身分にあったということで、多分この周布を根拠地としていた周布氏の先祖は、毛利氏の勢力伸張で配下になったということだろう。この石見路にはそういう地名が多い。こういう想像もまた楽しということやね。
 周布川を越えてしばらく行くと、三隅という町に着く。三隅は戦国時代に三隅氏という豪族がいて、宗家である益田氏と石見で激しい戦いを繰り広げた。だが巨視的に見れば、石見の豪族達は尼子や大内、それに取って代わった毛利という、周辺の巨大勢力の配下にあり、それぞれの局地的な争いは、それぞれの代理戦争という面も持っていた。この辺りの状況は、冷戦下での世界各地の紛争とよく似ている。洋の東西を問わず、人間のやる事というのはそれほど変わらないということらしい。
 三隅市街から少し離れた高城山にある三隅城に登り、頂上に残る土塁や区画された平坦地とそこから見える日本海の絶景を満喫した後、国道9号線に戻って益田市を目指す。目指すといっても三隅の隣町ですぐに着くのだが、一旦素通りして美都町の四ッ山城に立ち寄り、そこから戻って益田城とも呼ばれる七尾城を訪れた。この城がある七尾山は、尾根筋が七つあるというところから来ていると思うが、能登の七尾城もそうだし、全国に無数にある名前だろう。城の構造としては、石見の有力な豪族だった益田氏の居城らしく規模は大きく、前面に川を控えてそれに向かって延びる尾根筋に郭を築き、挟まれるようにある谷に居館を、尾根の結合点に本丸を置くという理想的な形状をしている。時間的に午後5時になろうとしている頃で、今日中に山口に入る予定ならぎりぎりの時間だったが、思わすゆっくりと散策してしまった。
 益田を出て、再び国道9号線を今度は南へと進んでいくが、向横田城はそれらしい案内を発見できず、地図のページ境にあった下瀬山城は完全に見落として行き忘れた。それでも津和野に着いたのは、太陽も落ち、ほとんど日の暮れた時間になってしまい、津和野城へと連れて行ってくれるリフトはすでに止まっていた。この時間から1km以上ある山道を歩いていくのは無理があるので、仕方なく案内板だけを確認して下山した。
 津和野市街を走ってみると、この町が峻険な山の間に延びる谷筋にあるということがありありと分かるほど、細く長く広がっている。明日は天気が良くないようなので、とりあえず宿の確保をしようと駅の電話ボックスで電話帳をめくり、民宿小山というところに電話してみると1発OKだった。最悪、駅で野宿と考えていただけに運が良いなと思いながら、給油だけして民宿へと向かった。民宿は表通りではなく津和野川に面した裏手にあり、全く普通の民宿だったが、宿のおじいちゃんとおばあちゃんはとても親切で、遅い時間の予約だっただけに素泊まりかと思っていたが、晩飯もつけてくれるらしい。津和野市街であまりご飯の食べられる店が無さそうだったので、どうしたものかと思っていたが、非常に助かった上に、料理もとても美味しくて、かなりめっけもんの宿だ。
 ご飯と風呂を済ませて部屋でくつろいでいると、テレビの下に落書き帳発見し、パラパラとめくってみた。数年前からのものらしいが、歳も歳だけにいつまでできるかわからないができるだけ長くやっていきたいというおじいちゃんのメッセージと、ここの泊まった人達の暖かいメッセージが書き込まれていた。やっぱりみんなここで感じる事は同じようだ。本当に暖かい宿らしい。おじいちゃんとおばあちゃんが元気なうちに、もう1度訪れたいものだ。
走行距離 252.16km

10/28
 この日の朝、起床して最初に聞こえたのは雨どいの音だった。予定より雨が早いかと思いながら窓を開けてみると、結構な本降りになっている。今日はハードな1日になりそうだ。
 朝ご飯をたらふく頂いてチェックアウトすると、料金は5500円とのこと。安い。素泊まりで5000円以上するところもあるのに、なんて良心的なんだろう。改めてもう1度来たいという気持ちを確認し、出発した。
 出発する頃は小降りになっていたが、雲行きをみると当分止みそうにない。昔に家族旅行で来た津和野城へ登って、今の目で遺構がどんな状態か見てみたかったし、津和野市街もブラブラしてみたかったが、こんな天気ではろくに散策もできない。仕方がないので近くの森鴎外の旧宅に寄ろうと、旧宅の前にある駐車場にバイクを止めると、旧宅の隣の商店からつかつかと厚化粧のおばはんが寄ってきて、ここは二輪止めれないんですけどと言ってきた。どう考えても駐車場はガラガラやし、森鴎外旧宅の入場料はその商店で払うはずなのに、止めたらアカンとはどういうことや。しかも二輪ってなに?と思いながらも、どこに止めればいいんですかと聞くと、裏の川沿いへ止めろと言う。確かに二輪に占有されるよりも車のほうが人数も多いし、落としてくれる金も多いだろう。それにしても、朝早くて全然空いてる状況でそこまでする必要があるのか。二輪でも四輪でも観光客という意味では同じなのに、それを差別して大事にしないということが、津和野の落ち着いた良い雰囲気と、宿に恵まれた心地よさを台無しにした。ああいうのがひとりいるだけで、観光気分というのは全く崩されてしまう。その他がとても良い感じだっただけに、非常に残念だ。
 感じの悪いおばはんに入場料を払うのがあまりにも不愉快だったので、森鴎外の旧宅は外から覗くだけにして立ち去り、雨の中を県道で萩へと向かった。萩と津和野をセットで回る観光バスが多い為か、この県道はとても整備されていて走りやすい。これで雨じゃなかったらかなり良いワインディングロードになったはずで、グズつく天気が恨めしいが、この気持ちを上回ってさっきの不愉快さが萩に着くまで続いた。人間、悪い気分というのはしばらく引きずってしまいがちだ。観光客というのはだいたいハシゴするのが常なので、1度悪い気分になると、その場所だけならまだしも、その後の場所まで良い気分で観光できなくなってしまう。そういうところまで気持ちの行き届かない人間が、観光がメインの町にいたというのはとても残念だが、その悪い気分で次もあまり良い思い出にならないというのはもっと残念だ。あんなおばはんの為に旅を台無しにされるのはもったいので、早く切り替えたい。
 萩で最初に寄ったのは松陰神社で、萩に着く少し前は雨がほとんど降ってないような小降りになったが、神社に着く頃に再び降り始めていた。傘は持参していないので、雨宿りがてら松陰遺墨展示館に入ったが、こちらは入口付近にある蝋人形があるところとは違って盛況ではないものの、逆に重厚感があって落ち着いている。この日はたまたまテレビの取材があったらしく、カメラが入っていろいろと撮影していたが、これもあまり見る機会がない光景で、なんだか楽しかった。
 展示館のあとは松下村塾である。この境内に移築された建物を見ると本当に小さい。萩城から遠く、軽い身分の人間が多いこの土地で、塾へ通っていた少年達は寺子屋へ行くような感覚で来ていたというが、そんな心持ちの少年達がことごとく幕末の志士として育っていったのは、奇跡に近いものがある。何より師匠が、それだけ感化力の強い人物だったという証明だろう。
 雨の中、松陰神社をまわったが、神社を出る頃には小降りとなり、ほとんど雨が落ちてこないほどになっていた。市街地に出ると長州藩の藩校だった明倫館の跡地に明倫小学校があり、江戸時代に各藩の学校の中でもトップクラスだった藩校の名前を継いでいるだけに、非常に勉強ができそうな名前やと思いながら小学校を過ぎて右に折れると、武家屋敷へと着く。
 駐車場に入る頃には、天気は晴れ間が覗き始めるほど回復してきていたが、一時晴れという予報なのでまだまだ油断はできない。とりあえずカッパを脱いで辺りを散策してみると、江戸時代の風景を色濃く残す屋敷が広がっていた。しかも観光用の復元されたような屋敷ではなく、普通の人が住んでいる生きた街並みであるというところが良い。長州藩の風雲児だった高杉晋作の誕生地や、長州最大の政治家である桂小五郎こと木戸孝允の旧宅は、確かに観光の目玉ではあるかも知れないが、名もなき藩士の屋敷だった場所が現在まで残っているというのは、市街化の開発が著しいこの時代では難しい事だし、それだけ価値があると個人的には思う。
 武家屋敷を散策した後は、当然、萩城を目指す。武家屋敷を出る頃には再び雲が掛かってきていたが、もうしばらくはもちそうだ。城の二ノ丸にバイクを止め、天守台などを散策した後、指月山の詰の郭に登ったところで再び雨が落ちてきた。山の中はまだ木々があるのでそれほど濡れないが、麓では確実に濡れる。しかもカッパを着ていないので、雨の中着なければならないという困難もある。だが、どうしようかといつまでも山上の休憩所で雨宿りしているわけにも行かないので山を下りてみると、いよいよ本降りの様相になってきた。土産物屋の軒下を借りながらしばらく雨宿りし、小降りになった隙を突いて萩史料館へと駆け込んだ。
 萩史料館は、幕藩体制期下の長州に関する資料がメインで、なかなか見ごたえもあったので雨宿りがてらじっくりと見学し、もうとっくに昼を過ぎていたので、すぐ横の土産物屋で昼飯を済ませた。その頃には、雨も小降りになっていたので、バイクを止めていた場所に戻って素早くカッパを着込み、ようやく萩を後にした。
 萩から先は延々と国道191号線で海岸沿いを進んでいく。関西人にとっては京都から国道9号線が山陰回りで行っているという頭があるので、なんとなく国道9号線が西の端まで続いているような気がしているが、実際のところは昨日通ってきたように益田から津和野方向に折れ、山口を通って小郡で国道2号線と合流する。あとは下関に少しだけあるが、あれはもしかしたら国道2号線が関門トンネル方向に延びた為に、便宜上つけられたものではないだろうか。まあ、それは置いといて、国道191号線に入ってしばらくすると雨も止み、交通量は少ないながらも流れの良くない道をひたすら進んでいく。目標はただひとつ、本州最西端だ。
 本州最西端の毘沙ノ鼻は、ぎりぎり下関市にある。道が南下するようになってから風が強くなったが、この岬へ向かう道は特に強い。どこの岬でもそうだが、突端で障害物のない吹きっ晒しの道はこんなもんだろう。毘沙ノ鼻に着くと、そこには展望台があり、雲間からの光が蓋井島を照らすように漏れ出している景色は、とても神秘的に感じられた。しかし、ここは展望台であって、実際の本州最西端の碑は波打ち際にあり、ここからは見えない。そこに行くにはある施設を通らなければならないのだが、連絡が必要なので行かなかった。
 毘沙ノ鼻から更に国道191号線を南下していくと、いよいよ先端の街、下関の市街地に差し掛かってくる。とりあえずこんな天気なので、宿を取らなければと思って国道191号線から折れ、新下関駅で電話帳をめくってみたところ、分かりやすい場所にある浦島旅館という宿に予約が取れた。結構雨で疲れていたので、そのまま南下して関門トンネルの横を過ぎ、下関市街にある旅館へと急いだ。
 旅館にチェックインし、晩飯と洗濯場所を探しにブラブラと外に出かけてみると、本気で夜の街が近い。こんなところでは酒は飲めても飯は食べられないので、ボチボチと女将さんに教えてもらったコインランドリーへ向かうと、途中に弁当屋さんがあったので、そこで弁当を買い、コインランドリーに持ち込んだ。コインランドリーには誰もいなかったので、素早くパンツとTシャツを脱ぎ捨てて洗濯槽に入れ、手持ちの下着などの着替え4セットを全て洗ってやった。脱ぐところさえ見られなければ、あとは宿に帰って着替えるだけなので、必殺のノーパンにジーンズと上着だけという、バレたら確実に変態視される状態で悠々と飯を平らげ、雨が降り始めた中を宿へ向かったが、宿を出る時、天気が怪しいからと女将さんが傘を貸してくれたので、濡れずに帰ることができた。洗濯から傘までいろいろと心配してもらって、女将さんにはほんまに感謝やね。明日はいよいよ九州入りだ。晴れることを祈ろう。
走行距離 183.04km

10/29
 この日の出発は、他の客との車の入れ替えなどがあって多少遅れたが、その間、女将さんにコーヒーをご馳走になったり、隣の店の人に話しかけられたりして、なんだかんだと慌しかった。
 九州入りへは中国道経由の関門橋と国道2号線の関門トンネルの2ルートあるが、行きはトンネルで渡ることにした。下関市街からは、トンネルの入口も橋の入口である中国道のI.C.も山側にあるので、昨日下りてきた道を戻って山側まで行き、そこからトンネルへと入った。
 もともと1度通ってみたいという気持ちだけで、中に何があるわけでもないことは分かっているので、当然トンネルの中の景色はひたすらコンクリートが見えるだけというのと、海峡の幅からそんなに長くないというのには何も感じなかったが、空気のよどみと排ガスの臭いには閉口した。やはりバイクにとってトンネルは鬼門だ。
 関門トンネルを抜けて空が見えるといよいよ九州だが、トンネル出口からすぐのところに交差点があり、この最初の交差点で国道2号線は終わって3号線になるようだ。門司城に寄りたいと思っていたが、このトンネル出口の時点ですでに結構離れてしまっているようなので、帰りに寄ることにして、交通量が多そうな国道3号線を使わず、国道199号線で小倉に向かう。
 小倉には、戦国時代から北九州の拠点として重要視され、江戸時代も九州外様大名への抑えの城であった小倉城があるが、第2次長州征伐の時に逆に長州藩に攻略されて焼失し、建造物の類は残っていない。今は資料館を兼ねる天守が復元され、城跡は公園となっているが、細川忠興が自慢したという石垣だけは健在で、当時からの姿を留めている。
 小倉城に寄った後、市街地化されている場所には特に用はないので、再び国道199号線で西へと立ち去る。若松区まで来ればだいぶ交通量も減るので、ちょっと余裕が出てきたついでに近くの本城公園に寄ってみたが、ここはただの総合運動公園で何もなかった。本城公園からしばらく行くと国道199号線は国道3号線と合流し、そのまま福岡方向へ走っている。ここまでくれば国道3号線も交通量は減ってきているので、部分的に軽快に走れる場所もぼちぼちとあるが、やはり九州随一の大動脈とも言うべき幹線道路だけに大型車の量が多く疲れる。
 福岡へ向かう途中、宗像市周辺で城山トンネルという名前を見つけ、そういえば北九州で宗像といえば古代からの海の大族で、豪族としても中世の歴史に登場する名であることを思い出した。宗像という地名から、中世に宗像氏が本拠とした土地というのは間違いない場所で、そうなるとこの城山というのは宗像氏に関連した城がある可能性が高いが、国道沿いに関連するような案内が無かったのでスルーすることにした。少し先を急がなければならない事情があるからだ。その事情とは、この旅に出る前にインターネットで九州の良いスポットを教えてくれと掲示板に出したところ、何人かのライダーから返事があっていろいろとスポットを知ることができたのだが、休みが合えば一緒に走りましょうという感じで、その内の一人と約束していた。そして、たまたま今日は休みということで、合流することになったのだ。
 約束は昼に香椎の駅だったが、香椎の近くには立花山城があり、ここは外せないので寄ってみたが、この時点で昼になっていた。しかも立花山は車道が無く、麓から頂上まで徒歩で登らなければならなかったので、登山する人達を尻目に城に行く事を断念して香椎へと向かった。
 合流する人に遅れるとメールを打っていたのもあって結局自分が待つ事になったが、何とか無事合流できた。その人が薦めるスポットは志賀島。どのみち行こうと思っていた場所だが、福岡から少し離れて日帰りでのんびりドライブするにはちょうどいいらしい。2台のランデブーで国道3号線を少し戻り、九産大近くで遅い昼飯を食べると、せっかく遠くからきたのだからご馳走してあげるよと言われたので、お言葉に甘えてご馳走になった。さすが、30歳にもなると20代にはない余裕がある。
 非常に混んでいる国道495号線にゲンナリしながらもなんとか県道59号線へ折れ、志賀島へ続く細長い海ノ中道と呼ばれる半島に入った。この海ノ中道には海浜公園やマリンワールドなどがあって、大阪の舞洲みたいな臨海地区となっており、道路は広いのに交通量は少ないという走りやすい場所だ。正に細く長い海の中の道を爽快に抜けていくと、いよいよ志賀島へと入る。志賀島は名前が示す通り昔は島だったので、陸続きになっているとはいえ、その繋がっている部分は回廊のようになっており、つい2ヶ月ほど前に行った沖縄の海中道路よりもさらに海中道路という感じの道で、両サイドが砂浜になっているところに道路が通り、砂浜を走っているような感覚になる。この日は昨日に引き続いて風が強かったので、砂浜から吹き付ける風に砂が乗って痛い痛いと叫びながら走る羽目になったが、天気の良い穏やかな日には左右に玄界灘が広がるさぞかし素敵な道だろう。
 志賀島には周回道路があり、その道沿いには金印公園や海岸、リゾート施設などがある。ここで一旦休憩を入れて、デジカメでバイクを撮ってもらったりしながらいろいろと話をしたが、案内してくれた人は自営業なので休みに融通が利くらしく、わざわざ自分のために休みを合わせてくれたらしい。やっぱりいい人だ。
 志賀島から海ノ中道へと戻り、今度は博多の市街地へ向かった。時間もだんだんと夜に近付き、道の流れが遅いのもあって、博多の市街地に着く頃には完全に日は暮れていた。晩飯に屋台のラーメンを食べようと思ったが、中州や天神辺りの混み方が尋常ではなかったので、行き先を変更して福岡ドームの横を通り、ドーム近くのショッピングモールへと立ち寄った。この辺りは新たに作られた街という臭いが漂っているところで、新興住宅が山の手にあり、海沿いにドームを始めとしたいろいろな施設がある。観覧車もあるので、神戸で言えばハーバーランドに近い雰囲気だ。ここでご飯を済ませ、食べ終わった時にまたもご馳走してあげるよと言ってもらったのだが、さすがに2食もご馳走になるのは気が引けたので自分で払い、その人とここで別れて健康ランドへと向かった。
 万葉の湯という健康ランドも案内してくれた人に昼間教えてもらったところで、福岡空港近くにあるらしい。すでにそこそこの時間になっているので、ひとっ風呂浴びてさっさと寝ようと先を急いだが、1度行き過ぎて空港に着いてしまったことなどもあって、結局着いたのは10時を過ぎていた。さて入場しようと料金を見ると2400円とある。やけに高い。もしかしたら深夜料込みかなと深く考えず、ひとっ風呂浴びて館内を散策していると、深夜12時を過ぎると1500円の深夜料金がかかりますというアナウンスが。おいおい、健康ランドのくせに雑魚寝で泊まって3900円とは何事やと思ったが、雑魚寝の部屋にはリクライニングシートがたくさんあり、それぞれにちっちゃなテレビが1台付いていて半個室のような感じだ。そういえば温泉の湯は由布院から毎日持ってきているというのが書いてあった。その割に湯はそんなに特別なものという感じではなかったが、なんにしろ、ここは超高級健康ランドらしい。こんなところは初めてや。3900円あったら民宿に素泊まりできるやんと思いながら、仕方がないので変な高級感を満喫するしかなかった。
走行距離 171.84km

〜中編へ続く〜
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