首里城 所在地 沖縄県那覇市
沖縄道那覇I.C.北西800m
区分 平山城・琉球式城郭
最終訪問日 2001/9/5
守礼之門 琉球王朝の首府。
 沖縄に豪族などの支配勢力が現れ始めたのは12世紀頃である。その頃の王として舜天の名があるが、舜天は実在が疑われており、本土の神話時代にあたると思われる。この後、英祖が舜天の王統である義本から禅譲を受けて王朝を開いたが、中山の察度が英祖王統を倒し、南山、北山と共に三国が割拠する三山時代が100年ほど続いた。三国は互いに激しく争ったが、やがて中山に尚巴志が出て1429年に三山を統一し、実質的に沖縄全土を統一した初めての琉球王朝が誕生した。
 首里城の築城時期ははっきりしていないが、発掘調査の結果から中山時代に城として用いられたと推測されており、13世紀から14世紀にかけて築城された他の沖縄の城と同様に、その頃に城として成立したと考えられている。
 この最初に沖縄を統一した王朝は第一尚氏王統と呼ばれるが、7代尚徳王の急死後、伊是名島の農夫出身の金丸が即位し、第一尚氏王統は絶えた。この経緯については、史書には群臣に推されて王位に就いたとあるが、別な推論もある。すなわち、尚徳王は英邁だったが、父で前王の尚泰久王に重用された金丸と合わず、結局はその台頭を招いたようで、この即位は金丸によるクーデターではなかったという説である。
手前の瑞泉門と奥の漏刻門 尚徳王に世子がいたことから、クーデターというほどの血生臭いものかどうかはわからないが、金丸の力が他を圧倒していたならば、恐らく類似のことはあったのだろう。だが、金丸は対外関係に配慮して名目的に尚氏を継ぎ、尚円王と名乗った為、対外的には尚氏の王統が続くことになった。これを第二尚氏王統と呼んでいる。
 第二尚氏王統の全盛期は3代尚真王の頃で、北山と南山に強い支配力を及ぼして王を頂点とする中央集権化を進め、宗教も整理した。また、活発な交易を展開し、中国の明と朝貢貿易を行ったほか、東南アジア諸国とも活発な交易や外交を進めた。
 しかし、16世紀の後半になると、スペインやポルトガルによる南蛮貿易が活発になり、琉球王国の交易は衰退した。そして、戦国期を終えた日本からの圧力も強まり、ついには江戸時代初期の1609年に薩摩藩島津氏によって軍事攻撃され、首里城も降伏開城した。これにより、日本の江戸幕府と、中国の明、清王朝に両属する形でなんとか琉球王国は存続したが、対外貿易の窓口を琉球に求めた薩摩藩は琉球王国の貿易の主導権を握り、江戸時代を通して巨利を得続けることとなった。
首里城正殿 明治政府が成立した後、琉球王国は明治5年に琉球藩となり、同12年には琉球藩も廃止されて琉球王国は完全に滅亡した。これを琉球処分と呼ぶが、この際、琉球王国が日本と中国の両属という形であった為、日中間で帰属問題が起きた。その後、台湾での琉球漁民殺害に対して日本政府が台湾へ出兵した為、沖縄が日本領土であると国際的に認知され、最終的には日清戦争の勝利で論争自体は自然消滅したが、その間、沖縄の近代化は遅れた。
 首里城は、王朝の成立以降、本格的な首府として整備され、3度の焼失に遭いながらも代々の王が門の創建や修復を行い、拡張されてきた。戦前には正殿や4つの門が国宝に指定されたが、残念ながら沖縄戦で4度目の焼失に遭い、地下に司令部の壕があったことから徹底的に破壊された。
 現在の首里城公園は、アメリカ統治時代から復元が進められ、平成4年11月3日に復元工事の大部分が完了し、開園されたが、工事は現在も続いていて、公開されていない門などもある。朱塗りの建物と赤瓦が南国沖縄の陽光に映えてとても美しい城で、正殿の内部構造や細かい装飾、漆の美しさなどに目を惹かれ、日本本土の城とはまた雰囲気が違って独特の良さがある。
首里城から那覇市街
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