城のあった古城山は、昔は島だったとも応神山と連なっていたともいわれている、海に面した標高約70mの山に築かれた海城であった。
最初に築城したのは、桓武平氏貞盛の流れとも大江氏流とも伝えられる陶山義高で、後醍醐天皇と鎌倉幕府の関係が風雲急を告げていた元弘元年(1331)に市街の西にある竜王山に笠岡山城を築城し、この地には支城が置かれていたとされる。
陶山氏は、源義家の長男である義親追討に功を挙げた盛高を祖とし、備中にはその子泰高が住して平氏に仕えていたといい、泰高の孫高光は源平合戦で奮戦し、壇ノ浦で討死したという。しかし、それ以降も備中を領し続けたようで、元弘の乱では一貫して鎌倉幕府に味方し、後醍醐天皇が籠った笠置城攻めで活躍したが、六波羅探題防衛の為に上京したものの間に合わず、鎌倉へと敗走した北条仲時に近江で合流して共に自刃している。
2度の政権交代期に敗者側であったというのはおもしろいが、それでも陶山氏は生き永らえて室町幕府に仕え、奉公衆などになっていたようだ。しかし、永正3年(1506)に村上満兼に攻撃され、最後の当主高雅は防戦敵わず開城して落ち延び、滅んだという。これで城も一旦廃城になり、次に歴史上に登場するのは、弘治年間(1555-58)に能島村上水軍の村上隆重が再築した時である。
古くから瀬戸内にあって勢力を保ってきた村上水軍は、天文20年(1551)の厳島の合戦以降、毛利氏と行動を共にし、山陽の水軍を統括していた小早川隆景の指揮下にあって織田氏の海戦などに活躍した。笠岡城は村上氏にとって本州側の重要な拠点であったが、毛利氏にとっても山陽道を押さえる備中の入り口として重要視したようで、三村氏が叛乱した時にはこの城で軍議を行い、備中高松城の攻防の時には、鞆に身を寄せていた足利義昭がこの城まで来ている。
城主は隆重の後、嫡子景広が継いでいたが、大名による統治体制が進むと半独立であった海賊の存在は許されなくなり、隆重の甥で村上水軍の棟梁格であった村上武吉が能島を追われたように、笠岡が毛利元康に与えられた為に景広も周防へと退去した。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で毛利氏が防長二州に減封されると天領になり、高梁の松山城に入った代官小堀正次、その死去後は子の遠州政一が統治し、やがて池田長幸の領地になった。現地には、池田長幸の領地になったのは元和2年(1616)とあり、当初はこの城が居城で同5年(1619)に松山城に移って廃城になったとあるが、移封は元和3年(1617)が正しいようで、居城にしたというのも確認できず、恐らく最初から松山城に入ったものと思われる。
現在は古城山公園となっているが、明治の笠岡湾干拓の為に土砂が削り出され、遺構は消滅し、山の外観もどの程度変わったか、残念ながらわからない。古城山公園となった城跡からは笠岡の広大な干拓地の眺望が広がり、水軍が本拠として城際まで海が迫っていただろう海城は、今は昔である。
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