十二外城と呼ばれた都之城の支城群のうちのひとつ。
築城は、南九州において南朝勢力が強かった頃、北朝勢力の挽回を目指して正平14年(1359)に相良定頼が築いたとも、後に北原氏によって築かれたともいわれる。以降、応仁の乱の頃の城主として肝付兼恒の名が見え、やがて北原氏の所有となって白阪左衛門が守っていたとされるが、永正元年(1504)には北郷家の所有となって北郷久家が城主となったようだ。
大永2年(1522)から翌年にかけては、伊東・北原連合軍対北郷氏の戦闘が行われ、久家は伊東氏の梶山城を攻略しようとして討死、代わって城主には小杉頼武が据えられたが、北原氏が城を奪い返して北原遠江守を城主とした。この後、野々美谷城の攻略で伊東尹祐が死去したこともあって、三者の関係は離合集散して複雑となり、北郷忠相が城を一時奪い返すなどしたが、その後は再び北原氏の所有となっていた。しかし天文12年(1543)、庄内盆地一帯に勢力を広げる北郷忠相は、北原遠江守の守る山田城を攻撃して遠江守を敗死させ、城を奪って北郷忠茂を城将とした。
以降、忠相と飫肥の豊州島津家へ養子に入った子の忠親、北郷家を継いだ忠親の子時久は緊密に連絡しながら勢力を拡大し、島津本宗家の有力な藩屏となったが、天正15年(1587)の秀吉による九州征伐に島津氏は敗れ、九州統一という島津家の野望は潰えた。
その九州征伐で秀吉軍の人質となった伊集院忠棟は、戦後処理を通じて秀吉や石田三成と懇意になり、北郷氏の累代の本拠であった庄内が文禄4年(1595)に伊集院忠棟に与えられ、山田城も伊集院氏の属城となった。しかし、その結果、島津家中で伊集院家は浮いた存在となり、慶長4年(1599)に家督相続の確執から忠棟が誅され、忠棟の子忠真は庄内の乱と呼ばれる叛乱を起こすが、山田城でも伊集院家の長崎治部少輔が城主を務めている。この乱の後、庄内は北郷氏に戻され、山田城も再び北郷氏の所有となったが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
都城を訪れた時、都城歴史資料館で場所を確認すると丁度ツーリングの予定ルート近くであったので、資料館で示されていた場所の周辺を探してみたが、案内板などは見つけられなかった。恐らく、山田町の役場か山田中学校が城跡の平坦地を利用して建てられているのではないかと思われるので、どちらかの敷地内には城址碑などがあるかも知れない。 |