戦国末期の日向における筆頭勢力であった伊東氏累代の居城。
伊東氏は藤原南家流工藤氏の裔で、伊豆国伊東荘の押領使であったことから伊東を称し、祐経の時に頼朝から日向各地の地頭職を得て子の祐時に譲ったとも、祐時自身が地頭職を得たともいわれる。
鎌倉時代の伊東氏惣領は日向に土着するすることはなく、庶流が地頭代などの現地管理者として下向していたようで、日向伊東氏の初代祐持が鎌倉幕府崩壊後に挙兵した北条時行と共に戦うなど、東国で行動している。この後、祐持は尊氏に降伏して共に各地を転戦、その恩賞として日向都於郡3百町を与えられ、建武4年(1337)にこの城を築いた。それ以降伊東氏の本拠となったが、祐持は京都で死去したように、完全に日向に下って領地を掌握していたわけではないようで、本格的に日向に土着したのは子祐重の時とされ、一説にはこの祐重が築城したともいう。祐重は都於郡を横領していた木脇伊東氏と和解して氏祐を称し、土持氏らと共に北朝方として南朝勢力の掃討に努めた。
以来、都於郡城は伊東氏の本拠であったが、永正元年(1504)尹祐の時に館が炎上して伝来の古書などを焼失し、全盛期を築いた義祐は家督争いなどによって城が荒廃していた為かこの城を本拠とせず、天文5年(1536)に佐土原城に入城して家督を相続している。ただ、その佐土原城も翌年に炎上、本拠は更に宮崎城へ移されるなどしたが、資料には都於郡の名がよく登場することから、父祖伝来の地として伊東家の中では重要視されていたのは間違いなく、天文23年(1554)には再びこの城に本拠が戻されている。
この義祐は、家督相続前後の内訌を収めて日向の統一に乗り出し、祖父の成し得なかった飫肥地方を奪取するなど、伊東四十八城と呼ばれる支城網を構築して全盛期を現出したが、真幸院の攻略を目指した元亀3年(1572)の木崎原の合戦で島津義弘に逆襲されて大敗し、一族の将以外にも多くの地頭や奉行を失った。これ以降、家臣の叛乱や島津氏の圧迫などによる寝返りが続出、天正5年(1577)末から翌年にかけて、領国を維持できなくなった義祐は都於郡城を出て豊後へ落ちていった。天正6年(1578)には、大友宗麟が日向奪回を大義として侵攻したが、耳川の合戦で大敗を喫して日向は完全に島津氏の手に帰し、島津家当主義久の末弟家久が佐土原に入城、都於郡城はその支城として鎌田政親が城主となった。
その後、九州を席巻した島津氏は宗麟の依頼によって出兵してきた秀吉と対戦したが、利あらず降伏、家久には改めて佐土原城が与えられ、都於郡城も佐土原領に属した。一時、子の豊久が関ヶ原の合戦で義弘を守って討死した為、天領となったが、島津宗家の運動によって垂水島津家が佐土原に入封して佐土原藩が成立、都於郡城もこれに属し、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。ちなみに、伊東氏は義祐の次男祐兵が九州征伐後に飫肥地方を与えられ、飫肥藩として維新まで存続している。
城は、東に本丸を中心とする複数の郭を配し、その北に奥ノ城、西に二ノ丸、更に西に三ノ丸、その南に西ノ城と呼ばれる郭群があった。これら五城郭と呼ばれる大きな5つの郭は、東西400m、南北260mの規模を持ち、周囲からの比高約80mの台地上にあって、それぞれの郭は土塁と大きく深い掘切によって区画されており、本丸大手の虎口や各所に残る土塁などは非常に見ごたえがあって良い。また、主郭部分でもこれだけの規模があるにもかかわらず、周囲には出城として南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城の4つがあり、日向の首城たるに相応しい巨大な城郭であったことが、現地ではありありと実感できる。
現在は、本城部分に芝生が敷かれて史跡公園として整備されており、宗麟が大村氏や有馬氏と共に派遣した天正遣欧使節の一人、伊東マンショの像が本丸跡に立つ。マンショはここで生まれ、義祐と共に豊後へ落ち延びた後、宗麟の遠縁にあたる事からその名代として使節に選ばれたのであるが、かつては国主の一族であった自分にのしかかる波乱の人生を、自分自身の目にどう映していたのだろうか。戦国時代に翻弄された人間は数多いが、マンショもまたその典型的なひとりである。 |