高城 所在地 宮崎県木城町
木城町役場北東500m
区分 山城
最終訪問日 2001/11/8
高城の縄張図 耳川の合戦や九州征伐で戦場となった為、日向の高城とはすなわちこの高城を指す事が多いが、他の高城と共に日向三高城のひとつに数えられ、新納院の名から新納高城とも呼ばれる。
 南北朝時代の初期、島津忠宗の四男時久は足利尊氏に属して功を挙げ、建武2年(1335)ここ新納院の地頭職となって高城を築き、自らも新納と称したが、正平5年(1350)には足利尊氏と弟直義の対立で直義派となった畠山直義が城を奪った。直義派はその後、尊氏の子で直義の養子となっていた直冬が引き継いだが、その勢力後退で畠山氏も衰え、城は土豪の土持氏に属すようになった。
 長禄元年(1457)、平安時代から日向各地に勢力を張った土持七頭のひとつである財部城主土持影綱が、都於郡城主伊東祐堯に小浪川で敗れると、高城も伊東氏の所有となったが、義祐が家督相続をする前後には米良一揆によって奪われるなどしている。後には、義祐が整備した伊東四十八城という外城制度のひとつに数えられ、野村蔵人佐などの名が城主として見えることから重要な城であったことがわかるが、伊東氏が真幸院の制圧を目指した元亀3年(1572)の木崎原の合戦で島津氏に敗れて以降、島津氏の圧迫で家臣に叛乱や寝返りが続発し、天正6年(1578)ついには義祐が豊後の大友宗麟を頼って落ち延び、城も島津氏の手に帰した。
 伊東氏没落後、高城には島津家臣の山田有信が入城して佐土原にあった島津家久と共に日向防衛の要となり、天正6年(1578)の耳川の合戦の端緒となった高城攻防戦では、5百という寡兵にもかかわらず数万の兵を相手に陥落せず、島津家久の数千の援軍を得て持久戦に持ち込んだ。そして救援した主軍と共に後詰決戦を挑み、島津軍得意の釣り野伏せという陽動伏兵戦術を駆使して大勝している。
 また、その7年後の九州征伐でも、根白坂で主軍が敗れる中、城は最後まで陥落せず、当主義久の説得によってようやく開城した。大軍を2度も城下に迎えながら寡兵でもって攻撃を防いだのは、要害の地にある城と、その構造を知り尽くした城将有信の指揮が見事に合致した結果であろう。
 城はその後、宮部継潤の預かりを経て財部に入部した秋月氏の所有となり、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になっているが、戦国の最後の段階で城の持つ防衛能力を存分に発揮できたのは、城としては幸運であったかもしれない。
 城地は、当時高城川といった小丸川と切原川に挟まれた独立丘陵上にあり、東に本丸を、西に二ノ丸を築いただけのシンプルな構成だが、西以外は全て断崖で囲まれ、西方向も7つもの堀切で防御を固めている。規模としては小さいが、自然の地形を最大限利用した山城で、少ない兵力で敵を足止めし、本隊の来援を待って後詰決戦を挑むという境の城としては、兵力を過不足なく守備に使えるので理想的だ。
 現在本丸跡は公園となり、二ノ丸跡は駐車場となっていて、車で訪れることもできるが、麓から徒歩で登れる遊歩道も整備されている。遊歩道を登っていくと、標高は60mほどのはずだが、壁のような断崖が迫るためか、数字よりも高く感じる。途中に腰郭があり、この断崖と腰郭の組み合わせが、攻城軍を悩ませたのだろうというのを直に肌で感じることができるので、訪れた人にはぜひその足で登ってほしい城である。
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