佐土原城 所在地 宮崎県佐土原町
東九州道西都I.C.南東3km
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/7
江戸時代の御殿を復元した鶴松館 佐土原は、中世の頃は田島と呼ばれ、日向の地頭職を与えられた伊東祐時の子祐明が田島に赴任して地名を名乗り、その子孫が土着していた。佐土原城の築城時期ははっきりとしていないが、南北朝時代にこの田島氏の子孫が築城したとも、田島氏を滅ぼした伊東祐立の子祐賀が佐土原に入って築いたともいわれる。
 佐土原城が伊東氏の支配下となって以降、本城である都於郡城と並んで伊東宗家では重要視された城だったようで、史料にも度々その名が見える。中でも有名なのは義祐の時で、義祐は家督を継いでいた弟祐吉の急逝によって天文5年(1536)に家督を継ぎ、累代の本城であった都於郡城からこの城に本拠を移した。城は翌年に焼失してしまった為、一旦宮崎城に居を移すが、城郭の改修と京風の城下街を形成して再び本拠とし、まるで拡大していく伊東家の勢力を象徴するような城となった。
 その後、天文23年(1554)に一旦都於郡城へ本拠が移されたが、永禄3年(1560)嫡子義益に家督を譲ってからは義祐の隠居城となり、永禄12年(1569)に義益が早世した後は義祐が嫡孫義賢を補佐して伊東氏の全盛期を迎え、城は伊東四十八城と呼ばれる支城網の要の城のひとつとなった。しかし、元亀3年(1572)の木崎原の合戦で島津氏に敗北した義祐は、勢力を拡張した島津氏の圧迫による家臣の叛乱や寝返りに抗しきれず、天正6年(1578)には豊後の大友氏を頼って落ち延びた為、以後は島津家久の領有となった。
 天正15年(1587)の九州征伐では、大友氏に大打撃を与えた耳川の合戦と同様、高城に山田有信を置いて籠城させ、本隊はこの佐土原城から奇襲に打って出たが、根白坂の戦いで敗北し、島津氏の野望は潰えた。
 戦後、佐土原は改めて家久に与えられが、家久は秀吉の弟秀長と会談してすぐに急死した為、家久の武を恐れた秀長が毒殺したという説が根強くある。家久死後は子の豊久が領していたが、関ヶ原の合戦で叔父島津義弘の敵中突破を守って討死した為、しばらく天領となり、慶長8年(1603)島津宗家の働きかけで垂水島津氏の以久に3万石で与えられ、薩摩支藩としての佐土原藩が成立、明治2年の広瀬移転まで居城であった。
 城は、山頂から本丸、南ノ城、松尾丸という主な3つの郭で構成され、麓に二ノ丸を置いていたようだが、発掘調査から、南九州には珍しい三層の天守が山上にあったことがわかっている。この天守は天正期から江戸時代初期にかけてのものとみられ、金箔の鯱瓦が出土していることから、秀吉による九州征伐以降、豊臣政権の影響を受けて造られたものと考えるのが妥当だろうか。
 幸いにも、佐土原藩2代忠興が寛永2年(1625)に山上にあった居館を麓の二ノ丸へ移し、以後の中枢とした為、山に人の手が入らず、天守台の石垣などは破却されているものの、現在も山上の遺構は比較的良好に残されているらしい。麓の二ノ丸部分も、明治期の広瀬移転に伴って城が破却され堀などは埋められてはいたが、城下町も移転した為に田地と化して市街化せず、御殿の発掘調査では良好な遺構が残っていた。この発掘調査を元に御殿の一部を復元したのが鶴松館で、城跡を含めた一帯も佐土原城址公園として整備されている。ただ、訪れた時は鶴松館が5時を過ぎて閉館しており、そこから出ている登山道に入れなかった。他の登山道を探そうと思ったが、すでに陽は落ち、宿も確保できていなかった為、城の散策は残念ながら諦めた。
107