都城一帯は、古くは広大な荘園であった島津荘の中心であったといい、市内に残る庄内もしくは荘内という地名は、島津荘の根本の地で中心であったということを表している。
鎌倉時代に三州の守護となった島津氏の初代忠久は、もとはこの島津荘の下司職で、一時は都城周辺を本拠としていたらしく、後には名乗りを惟宗から荘園名の島津へと変えた。これにより都城は島津氏発祥の地とされるが、実際に島津氏が領国に下向して定着したのは元寇の頃で、それまでは鎌倉に居住したらしい。
南北朝時代には、島津氏4代忠宗の六男資忠が北朝に属して戦功を挙げ、文和元年(1352)に足利尊氏から北郷300町を賜って現在の山田町古江に入部、薩摩迫館と呼ばれる居館を構えて北郷を名乗った。北郷氏はこの資忠以降代々勢力を拡大し、2代義久は永和元年(1375)現在の都城市周辺に進出して都島と呼ばれる丘に城を築き、都之城と名付けて以降の北郷氏の本拠を整備したほか、その曾孫敏久は安永城を築くなど勢力を広げ、敏久の曾孫忠相の頃にはほぼ都城盆地を掌握している。
しかし、戦国時代に入ると惣領島津家に内訌が起こるようになり、北郷氏もそれに巻き込まれる形となって周辺の北原氏や、勢力を伸張してきた伊東氏、肝付氏と三俣の地などを巡って激しく戦い、やがて飫肥にあって同じ島津庶家であった豊州島津家と連合、北郷家8代忠相の子忠親が豊州家に養嗣子として入るなどした。この日向南部の激しい争いの中、北郷家は薩州島津家の実久を追って鹿児島に入った忠良・貴久父子を守護と認めて三州統一に協力し、天正15年(1587)の九州征伐でも時久・忠虎父子が上方軍と戦っている。しかし、この戦いの和睦の人質になった伊集院忠棟は秀吉や石田三成と懇意になり、文禄4年(1595)には都城8万石が給され、北郷氏は祁答院に転封させられた。
一方、庄内を得た忠棟であるが、島津義弘とその子忠恒が朝鮮から帰陣した直後の慶長4年(1599)、忠恒によって伏見で手討ちにされている。忠棟は義弘の娘婿であった子の忠真を島津家の跡継ぎに望んだとも、主家である島津家を蔑ろにしたともいわれているが、これは勝者である島津側の言い分であり、やや都合が良すぎる。有力大名の重臣を一本釣りして独立させ、大名に取り立てるというのが得意であった豊臣政権に近付き過ぎた忠棟に対して、勢力拡大や独立を警戒した忠恒が先手を打ったか、忠恒が家督相続する際に忠棟が反対したという感情的なシコリが招いた結果というのが実際のところではないだろうか。ともかく、父の死を知った忠真とその家臣は、都之城と周辺12外城に立て籠もったが、その心境は怒りであったのか、座して討たれるよりはと止むを得ず籠城に追い込まれたものであったのかはわからない。ただ、伊集院軍には飫肥の伊東氏や熊本の加藤氏の隠れた支援があったようで、島津家相手に互角に近い戦いを繰り広げ、翌年2月、消耗の激しい両軍は家康の仲介を容れて和睦した。これにより忠真は頴娃に移されて北郷氏が都城に復帰したが、忠真が2年後に討たれたのに対し、北郷氏は島津氏の配下で最大であった4万石の私領を治め、寛文3年(1663)には主命によって島津姓に復した上、維新まで続くなど、都城を領したふたつの家は対照的な結末を迎えた。
城は、大淀川にせり出したシラス台地に築かれ、現在の市名も都之城や都城と書かれた城の名に由来するが、現地での城名の表記は都之城となっていた。初めは小規模な城だったようだが、日向に打ち込んだ島津氏の楔として北郷氏が機能し、勢力を拡大していくうち城地は拡張され、大淀川に接する断崖上を本丸に、現在の日豊本線を挟んだ南や台地が続く西に郭を広げ、11の郭、総面積25ヘクタールの大きな城となった。元和元年(1615)の一国一城令で廃城になっているが、城主居館は現在の歴史資料館の場所にあったとされ、発掘調査では比較的大きな遺構が見つかっている。
現在は6つの郭が残っており、公園や神社の敷地として利用されているが、空堀や土塁の一部はその大きな規模を比較的残しており、公園の周囲にも所々にその痕跡を見つけることもできる。本丸跡は歴史資料館の敷地として使用され、城をイメージするような建物や城門が造られており、台上からの都城市街の眺めはすばらしい。市街地から城跡がやや離れているので、周囲にはのんびりとした雰囲気があり、単純に公園としてもなかなか良い所だ。
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