桂内閣で外相を務め、ポーツマス条約締結や、不平等条約改正に尽力した小村寿太郎の記念館。正式には、日南市国際交流センター小村記念館といい、1993年1月に開館した。
小村寿太郎は、安政2年(1855)飫肥藩士の子として生まれ、大儒安井息軒が教鞭を執っていた頃の藩校振徳堂に入り、優秀な成績で卒業。長崎留学などを経て、文部省貸費留学の1期生としてハーバード大学に学び、帰国後は大阪裁判所勤務を経て外務省に入省した。
藩閥全盛の中、小藩出身者としての苦労もあったが、同じく藩閥とは無縁であった時の外相陸奥宗光に見出されて日清戦争時の清国臨時駐在公使となり、明治34年には第1次桂内閣の外相となった。翌年、日英同盟を締結して対露協調を目指し、日露戦争において日本軍が奉天で勝利すると、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトと個人的に親交のあった金子堅太郎を、すぐさま大統領と接触させて講和の斡旋を依頼し、小村は講和会議の全権大使としてポーツマス条約に調印した。ただ、これに関しては、賠償金を取れない政府の弱腰に対する批判が国民の間に広がり、特に労働者などの無産者層によって日比谷公会堂焼き討ち事件などが起こされている。
この後、第2次桂内閣でも外相に起用され、桂の主導した韓国併合を支えて列強の支持を取り付け、陸奥も尽力した不平等条約改正に尽力。幕末からの懸念であった関税自主権を回復した。しかし、念願の関税自主権を回復し、侯爵を授けられた明治44年に亡くなった。
生前の小村は、顕官としては珍しく非常に質素で、また無私であったことがよく伝えられ、その性格を表すように外交に対する身上は誠の一字であったという。ただ、父が事業に失敗して多額の債務を抱え、妻は美人だが家事をせずヒステリーをよく起こす人で、プライベートはあまり恵まれていなかったらしく、不遇時代の話には、借金取りの取り立てが厳しくて持ち金もないのに宴会などでタダ酒をよく飲んでいたという逸話も伝わっている。
記念館には、小村寿太郎の遺品や事跡を中心として親しかった人物の証言などもあり、人間としての小村寿太郎を表す展示が多く、外交史に名前を刻み込んだ外相というよりは、飫肥出身の偉人としての捉え方をしている。また、その功績に倣い、国際的に活躍できる人材の育成を目的とした国際交流センターとしての役割もあり、会議室や同時通訳施設も備えている。 |