綾城 所在地 宮崎県綾町
綾町役場北西800m
区分 山城
最終訪問日 2001/11/7
本丸の冠木門と望楼型の模擬櫓 綾の歴史は古く、縄文時代の遺跡があるほか、延喜式には日向16駅のひとつとして亜椰駅の名が見える。
 藤原氏南家流で木工頭であったことから工藤と名乗り、やがて伊豆国伊東に本貫を得て地名を名字とした伊東氏は、鎌倉時代に日向国内で多くの地頭職を得、綾周辺もその支配下にあった。しかし、鎌倉幕府瓦解の時に北条氏に属して足利尊氏に敗れた為、後に尊氏に従って都於郡を与えられたものの、綾は足利尊氏の家臣で元弘年間(1331-34)に日向に下向を命じられた細川小次郎義門に与えられた。
 綾城はこの義門、もしくはその子義遠によって築城され、義遠は綾の収納使となって綾氏を称し、以降数代に渡って綾を支配したが、室町8代将軍義政の頃、勢力を拡大した都於郡の伊東祐国に従った。この後の綾氏動向はよく分からないが、土佐一条家と伊東家の婚姻の際に綾を名字とする家臣が登場することから、戦国末期まで伊東氏に従っていたものと考えられる。
 一方、綾の地は15世紀初頭に地頭として長倉氏の名が見え、永正7年(1510)には伊東家の譜代の臣である長倉若狭守や垂水但馬守らによる綾の乱の舞台となっている。これ以降、伊東氏の日向支配を担う城として永禄年間(1558-70)には佐土原遠江守が城主となり、伊東四十八城と呼ばれる支城網のひとつとなったが、伊東氏が元亀3年(1572)の木崎原の合戦で島津氏に大敗し、柱石となる一族や多くの地頭、奉行らを失うと、徐々に配下武将が島津氏に寝返り、天正4年(1576)から翌年にかけては雪崩現象のように寝返りや放棄で多くの城が陥落、ついには実権を持っていた義祐が、支えきれずに豊後に落ち延びることを決め、この城を始めとする旧伊東領も島津氏のものとなった。以後、島津氏の日向支配の拠点であった佐土原城の支城として新納久時が城将となり、九州征伐後も島津氏が支配したが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
 城は別名龍尾城と呼ばれ、北に綾北川、南に本庄川を控えた丘陵の突端部分にあり、丘陵の脇にも小さな小川がある。丘陵の標高は50mほどでそれほど高くないのだが、南北朝時代の中世山城から拡張などでそれほど姿を変えなかったらしく、丘陵先端部分を本丸にして山上で完結している為、どちらかといえば平山城よりは山城の形式に近い。丘陵突端の本丸を含め、山上には大きく3つの郭が存在し、これらを区画する堀切や土塁は明確に残っていて、規模は大きくないものの、中世から戦国時代にかけての城郭遺構がどのようなものか、非常に分かりやすく残っている城である。
 現在の城跡には綾町の公共観光施設が建てられ、二ノ丸には綾城クラフト館が、本丸には戦国時代初期の天守閣の原型とも言うべき望楼型の櫓があり、周辺にもグラウンドや馬事公苑等がある。本丸の櫓は昭和60年に建てられたもので、中は戦国当時の歴史を展示する資料館となっているが、二層の居館の上に望楼がくっついた形という、初期の天守閣の原型とされる城郭建築を再現したのは全国で初めてらしく、もともと綾城にあった櫓の復元というわけではないものの、実際に戦国時代初期の頃によく見られたであろう居館を、日本城郭協会監修による設計を元に、地元にある木材で建てている。
麓から見た綾城の遠景 全国に復元ではない模擬の城はたくさんあるが、そのほとんどは鉄筋コンクリート製の白壁の天守閣で、ランドマークにはなってもリアリティーはない。それに対してこの城は、本当に当時存在したかもしれないという形状で、しかも当地の素材を使うというこだわりは賞賛に値するし、綾城が最も存在理由を持っていた時代の姿にできるだけ近付けようとする試みによって、建物に史実はなくてもリアルさは非常に漂っている。ただ、これは城好きにとっての話で、素人目にみれば地味な建物に過ぎず、やはり白壁の天守のほうが一般的にはインパクトがあって目立つかなと思うと、複雑な気分にはなる。
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