戦国時代、日向の大部分を席巻した伊東氏は伊東四十八城と呼ばれる外城体制を構築したが、その中に高岡城や高岡山城と呼ばれた城があり、これが天ヶ城の前身である。また、伊東義祐・祐吉兄弟と家督争いを起こした叔父祐武の自刃後、その子左兵衛佐が一時籠城したり、後に野村刑部少輔が城主であった内山城というのもあるが、高岡市街に内山という地名があり、内山地頭の城という意味で同じ城を指していると思われる。ただし、この前身の城についての事跡は詳らかではない。
関ヶ原の合戦で敗北した島津義弘は、あの有名な敵中突破をして帰国の途についたが、その途中で伊東家に襲撃されるという出来事があった。帰国してすぐの慶長5年(1600)、国境警備の重要性を痛感した義弘は、眼下に大淀川を臨み、もともと高岡城があったこの地を整備して大規模な近世山城として再築し、天ヶ城と名付けた。
実際に島津軍は関ヶ原で西軍だった為、他の東軍諸大名から攻撃されるというのは十分に考えられることで、築城理由がその防御の為というのはもっともであるが、隣接大名単独の侵入には有効であっても、世の帰趨が決した中での複数大名による討伐となれば大軍を相手にしなければならず、現実的に見て境の城が堅くても全体としては勝ち目の無い戦となり、外交手段による解決のほうが生き残れる可能性が高い。確かに国境の防備というのも理由のひとつには違いないが、関ヶ原の敗戦直後という時期を考えれば、家康に対して申し開きをする一方、軍備を整えて徹底抗戦も可能であるというポーズを見せる硬軟一体の政治的意図が築城には見え隠れしている。そこにはやはり、千やそこらの人数でも果敢に大軍を突破する薩摩の強兵ぶりを目の前で見せられた家康が、島津氏を討伐すれば勝つのは間違いないにしても、まだ世情が安定しない中でどれだけの損害を出し、また時間もどれだけ掛かるかという計算をせざるを得ないという現実があり、島津家にとっては徹底抗戦というのが強力な外交カードになっていた事を物語っているだろう。その証拠に、あれだけ多くの大名が取り潰された中で、島津氏は減封すらされず、望んだ通りの結果を引き出している。
天ヶ城は、城としての存在期間は短く、一国一城令によって元和元年(1615)廃城となったが、他の城がそうであったように外城制度として高岡に武家屋敷を造っているので、城は建物類を除きつつも詰としてある程度維持されていたと思われる。
城の構造は桃山末期の軍事要塞らしく、山頂を中心に峰伝いに築かれた7つの郭は広大で、現在パターゴルフ場となっている本丸跡と、ほぼ標高が同じであったとみられる続きの郭を利用したであろう歴史資料館や公園の敷地は、合わせるとかなりの広さになり、往時の城の規模がどれだけ大きかったかが実感できる。ただし、本丸の遺構がパターゴルフ場の下に保存されている以外は公園化してしまい、残念ながら遺構と呼べるものはほとんど残っていない。 |