津奈木の地名は、景行天皇が熊襲の征伐で遠征した時、船を繋いだ場所ということからツナギと呼ばれるようになったという。この地に城が築かれたのは南北朝時代とみられ、八代を本拠とした名和氏の家臣嘉悦泰行などが城主となっていた。
室町時代に入ると、人吉の相良氏が勢力を伸ばして名和氏を圧迫し、葦北郡や八代地方を支配するようになり、戦国時代には当主義陽の弟頼貞などが城主の名に見える。しかし、天正9年(1581)に薩摩の島津氏が北進して南の水俣城を囲むと、相良氏は島津氏に降り、津奈木は島津氏の支配するところとなった。
天正15年(1587)に秀吉による九州征伐が開始されると、相良氏は島津配下から脱して遠征軍の先導を務め、本領を安堵された。この時、秀吉から水俣の代官に任命された深水宗方が城を管理したが、その後寺沢広高、小西行長と領有が変わり、関ヶ原の合戦後は西軍に属した行長は改易され、加藤清正が肥後一国を支配した。
清正は水俣城、佐敷城と共に島津氏に対する防衛線のひとつとして城を整備し、平野長時や小代親泰などの重臣を城主とした。ちなみにこの小代親泰は、後に清正が一手に引き受けた名古屋城天守の石垣造営を担当し、石垣に銘が残されている。
城は、葦北津奈木川と千代川に挟まれた標高131mと110mの二つの山を中心に築かれ、周囲は断崖と急な斜面で囲まれた天然の要害である。城自体は、後に元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったとされるが、肥後の諸城は慶長16年(1611)の清正死後に幕命で廃城となっていることから、それ以前に廃城となっていた可能性もある。現在は本丸跡にテレビ塔が建ち、続きの峰の郭跡も公園として整備されているが、本丸の一段下のやや広い郭や土塁などは明確に残されている。
訪れたのは偶然に近く、宿を探す為に寄った津奈木の駅の案内板に大手や搦手という地名を見つけ、周囲を探すと少し離れた場所に舞鶴城公園の案内が出ていた。交差点から遠かったので危うく見つけられずに諦めるところだったが、その案内板から城跡までは車道が整備されていて、思ったよりも楽に登れた。しかし、公園が整備工事中で入れず、城の説明板も朽ちて倒れていたので、もう少し整備の手を入れてくれることを願う。 |