大隈半島のほぼ中央に位置するこの城は、大隈国の最大勢力だった肝付氏代々の居城で、タカヤマではなくコウヤマと読む。また、肝付城とも呼ばれる。
大伴氏の後裔といわれる肝付氏の祖が南九州に入部したのは、冷泉天皇の時代、つまり平安時代のことで、薩摩掾として兼行が薩摩に入国したのを最初とする。以降、曾孫の兼貞まで居住したが、兼貞は大隈国肝付郡の弁済使となって移住し、肝付を称した。この兼貞が肝付氏の直接の祖である。兼貞は肝付郡のほか、広大な島津荘の開発領主であった平季基の女婿として島津荘の荘司にもなり、鎌倉時代に島津氏が薩日隅三州の守護となってからも、肝付氏は大きな勢力を保っていた。
高山城の築城は、兼貞の嫡男兼俊によるという説もあるが、詳しい年代は判っておらず、本格的な城としての機能は、周辺との戦乱が大きくなるに従って次第に備えてきたものと考えられる。具体的には、北朝側に転じた島津氏と、南朝側に留まった肝付氏との対立が激化した南北朝時代辺りからではないだろうか。
南北朝合一後、肝付氏は大隈の守護でもあった島津氏配下の有力な国衆となったが、戦国時代の初頭に入ると島津氏の支配が衰え、明応年間(1492-1501)に兼連が、永正3年(1506)には兼久が叛乱を起こしている。肝付氏の最盛期を現出した兼久の孫兼続も、島津忠良の娘を室に迎えて良好な関係を築いた時期はあったが、永禄4年(1561)の廻城の攻防あたりから決定的な関係となり、毎年のように干戈を交えた。しかし、連合していた禰寝氏や伊地知氏が島津氏の攻勢によって相次いで降った為に孤立し、天正2年(1574)ついに兼続の子兼亮は高山城を開城して島津氏に帰順した。この時、兼続は既に死亡していたともいわれるが、北郷氏討伐の出陣中に高山城開城を知って憤死したという猛将らしい逸話も残っている。
この後の肝付氏は、内訌が起こって兼亮が追放され、当主となった弟の兼護は完全に島津氏の家臣となり、やがて薩摩国阿多へ移された。高山は伊集院忠棟に与えられたが、忠棟は鹿屋城を本拠とした為、城は次第に使われなくなり、やがて九州征伐の頃までには廃城となっている。
標高約80mのシラス台地に築かれた城は、丘陵部を大きな堀切によって区切り、本丸や二ノ丸を中心に山伏城など複数の郭が築かれ、堀切や土塁などの遺構がよく残っているらしいが、訪れた時はすでに日も暮れた時間となってしまっていたので、散策はできなかった。そうそう行ける場所ではないので非常に残念ではあったが、何を見ても暗くてよくわからないのでは仕方がない。また、江戸時代の薩摩藩の外城制度である麓が近くにあり、こちらもよく旧状を残しているという。 |