加世田城 所在地 鹿児島県加世田市
加世田市役所西南500m
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/5
 別府城とも加世田別府城ともいい、地名から加世田城のほうが一般的だが、現地の表記は別府城となっている。
 もともと加世田城は、南九州に勢力を築いていた薩摩平氏の流れである伊作平次郎良道の子忠明が、治承年間(1177-81)にこの地を領して築いたとされる。以降はその子孫が別府氏を名乗って代々居城としていたが、応永27年(1420)島津久豊に降った為、その子忠国が守護職のまま鹿児島を退いて加世田に移るなど島津宗家の持ち城となり、さらには忠国の弟用久の系統である薩州家の所領となった。この用久の4代後の薩州家当主が有名な実久である。
 実久が活躍した頃の宗家当主は勝久だったが、宗家は幼弱な当主が続いたこともあって力を衰えさせており、勝久の正室の兄弟だった実久は、その勢力を背景に自ら勝久に取って代わろうとした。危機を感じた勝久は、庶家の伊作家と相州家を相続した実力者忠良に、その嫡子貴久を養嗣子とすることで庇護を求めた。このように、有名な島津四兄弟の父貴久が宗家を継いだのだが、今度は勝久が家督に未練を持って実久と手を結び、実久と忠良の激しい争いが繰り広げられた。
 実久は一時、忠良を圧倒するほどの勢力を築いたが、やがて勝久と不和になり、その隙をついて忠良は劣勢を挽回、実久を加世田城に追い詰め、1度は自ら負傷するほどの敗北を喫したものの、天文7年(1538)の大晦日から翌年元旦の早暁にかけて、正月で兵の少ない城を攻めて落城させた。この、忠良自ら生涯で最も激しい戦いだったと言うほどの激戦の結果、実久軍は勢力を大きく後退させ、引き続き各地を制圧して実久を出水へ押し込めた忠良・貴久父子は、宗家継承を実質的なものにして島津家中をまとめる事に成功した。そして加世田城は、貴久が鹿児島に復帰して内城に入城した後、忠良の隠居城となり、忠良はこの地で没している。ちなみに実久退去以降の加世田の地頭としては、春成氏、新納氏、平田氏、本田氏など多くの人物が見え、江戸時代には外城制度の麓として城下は発展したことから、恐らく江戸時代初期か元和元年(1615)の一国一城令まで城は存在したのではないかと思われる。
 城は東城、新城と呼ばれる郭群を中心に、周辺に複数の出城を持つ城だったようだが、現在は開発でその殆どを失い、僅かに立つ碑や削平を免れた丘陵などが僅かに城跡を偲ばせるのみである。訪れた時は、このような状況の上、悪天候であったので、満足に城跡を辿っていけなかったが、近くには忠良が戦死者を祀った供養塔があり、当時の戦闘の激しさを物語る生き証人のようであった。
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