蒲生城 所在地 鹿児島県蒲生町
蒲生町役場南1km県道25号線西側
区分 山城
最終訪問日 2001/11/6
現地の城山公園の案内板 蒲生の字は戦国時代の蒲生氏郷など、近江の蒲生氏によって全国的であるが、薩摩の蒲生は「かもう」と読み、古代氏族の鴨族が根を張った地と類推されている。これは、近江の蒲生や京都の上賀茂、下鴨、鴨川などと同じである。
 藤原道長の曾孫で宇佐八幡宮の留守職として宇佐に下向した教清を父に持つ舜清は、最初大隈国垂水に下って垂水城を構え、同じく社人であった執印行賢の娘を娶ったという。その縁で行賢から蒲生や吉田を譲られ、保安4年(1123)蒲生院に入部し、蒲生城を築いた。だが、居館が麓の下久徳にあったとされるので、当時は峻険な山容を防御の要とした詰の城であったと考えられ、本格的に城としての機能が備わったのは、勢力争いが激しくなったもっと後世であろうと考えられる。具体的には鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてかと思われるが、舜清の子孫は蒲生氏と名乗って代々この城を守り、南北朝時代も最初北朝、後に南朝に転じて生き残った。
 室町時代、蒲生氏は三州守護であった島津氏に仕え、清寛、忠清は家老を務めるなどしているが、戦国時代に入ると島津家中の内訌と宗家の衰退によって独立を志向するようになり、何度となく叛乱を起こしている。天文23年(1554)8月には、蒲生家の当主範清が周辺の渋谷一族、菱刈氏、北原氏らと連合して島津貴久に与する加治木城の肝付兼演を攻撃。知らせを聞いた貴久は9月、一族を率いて蒲生城の支城である岩剣城を加治木城の援護の為に攻撃した。この時、日本で初めて火縄銃が実戦に使用されている。
 岩剣城攻撃の知らせを受けた範清は、加治木城の包囲を解いて援軍に駆けつけたが、島津軍に敗れて岩剣城は落城。だが、蒲生城の他の支城は島津軍の攻撃によく耐え、2年半に渡って戦線を支え続けた。しかし、劣勢となった情勢を挽回することはできず、弘治3年(1557)3月、ついに本城を除くすべての支城が陥落し、範清は蒲生城の鍵を島津軍に預け、火を放って逃れたという。これにより、島津氏は西大隈に大隈攻略の橋頭堡を得、旧蒲生領にはそれぞれ地頭を配したが、蒲生を与えられたのは比志島国真とも、その兄の国守ともいわれる。また、後の地頭には阿多長寿院盛淳がおり、関ヶ原の合戦で島津義弘の身代わりとなって討死したのは有名である。
 城は、龍が伏した形に似ていることから龍ヶ城とも呼ばれ、龍ヶ山全体を城郭化しており、頂上の数段に分かれている本丸を中心に、西に二ノ丸、北に三ノ丸を配し、山の峰ごとに倉ノ城、岩城、下城、東ヶ城等の出丸を築いた県内有数の規模を持っていたが、恐らく江戸時代初期か元和元年(1615)の一国一城令で廃され、以降の蒲生は外城の麓として発展した。また、南九州の城によく見られるように、シラス台地の侵食された谷を堀切として利用するなど、自然の地形を利用した防御能力は、一見しただけでかなり堅牢であったと思われ、歴史では貴久が足掛け3年も費やしてようやく開城に追い込んだのだが、蒲生氏が玉砕覚悟の籠城戦を展開していれば、さらにどれだけの月日を攻略に要したか計り知れない。
 現在は急峻な車道が通っており、本丸と二ノ丸の間に駐車場が整備され、城全体が公園となっている。今の蒲生は、国道が昔の街道筋から離れてしまったこともあって過疎化しているらしいが、城跡から市街を眺めると、田舎っぽい長閑な町並みがなかなか良い。また、この山の断崖には約1700もの梵字が刻まれ、天然記念物の大楠と共に日本最大規模を誇っている。
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