加治木城 所在地 鹿児島県加治木町
JR加治木駅北1km
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/6
 加治木市街に突き出しているシラス台地の突端部に築かれた城で、南方は断崖、西と北は網掛川で区画し、北東方向に山が連なるという、地形的に非常に堅固な城であった。
 加治木にはもともと加治木氏がおり、数代に渡って郡代を務めていた大蔵氏の裔とされるが、伝承では、一条天皇の治世であった寛弘年間(1004-12)の頃、郡代大蔵氏の当主良長に男子がなく、加治木に流されてきた藤原経平に娘を嫁がせて家系を継がせたとも、良長の未亡人が経平に再嫁して家系を継いだとも伝えられている。伝承はもしかすると、開発領主化していた大蔵氏が中央とのパイプを求めて藤原姓を名乗った家系偽装という可能性もあるが、この経平が加治木氏の祖としては明確な存在であり、島津忠久が守護職に就いた頃には、加治木親平の名が史料に見える。
 加治木城は、この加治木氏の居城として築城されたと考えられ、最も遡って経平かそれ以前の大蔵氏時代の居館から出発したとすれば相当古い歴史を持っていることになるが、実際のところ、いつごろ築城されたかは不明である。
 加治木氏は戦国時代まで加治木を領したが、明応4年(1495)6月には当主久平が島津忠昌に対して叛旗を翻し、帖佐城を攻撃して奪ったものの、翌明応5年(1496)忠昌の報復攻撃によって加治木城が落城し、阿多に移されている。その頃の大隈は、豊州島津家忠朝と新納忠武の対立や、忠昌の肝付氏への攻撃に対して新納、北郷、渋谷、禰寝氏らが一揆を結成するなど情勢が不安定で、久平も国人としてこれらの渦中にあり、その情勢に沿っての行動だったと考えられる。
 乱後、加治木城は伊地知重貞に与えられ、島津忠治、忠隆の時代に家老を務めたが、忠隆の弟勝久の代になって人事が刷新されたことに不満を持ち、叛乱を起こした。この叛乱は、勝久の要望を受けた島津忠良によって制圧され、加治木には討伐に協力した肝付氏庶流の兼演が入ったが、兼演は後に、忠良が薩州島津家の実久を降して島津惣領の地位を固めた時には服従しなかった。だが、島津氏が薩摩の北部以外をほぼ制圧し、更に三州統一を図って大隈に触手を伸ばすとこれに帰順。島津氏と抵抗する大隈国人衆の間で争奪戦が繰り広げられた時には、蒲生氏、渋谷一族、北原氏らの攻撃を迎えて兼演の子兼盛は加治木城に籠城するなど、親島津の立場とっている。
 庶流肝付氏は以降も島津氏に従って加治木を領していたが、文禄4年(1595)に喜入へ移り、加治木は島津氏の直轄となった。そして慶長12年(1607)、薩摩と大隈の双方の玄関口にあたり、日向へも街道が通じる要衝として重視した島津義弘は、平松から加治木に居を移したが、城に居住することを幕府が許さなかった為、平地に加治木屋形と呼ばれる居館を造営し、加治木城は廃城となった。ちなみに、義弘は元和5年(1619)この地で没し、その後の加治木は庶流の島津氏が領している。
 城の構造は、シラス台地上を空堀によって区画し、内城に3つ、外城に5つの郭をほぼ直線状に並べ、縦1.2km、周囲4kmの大きな規模を持つ城であったという。現在は、ほとんどが田園と藪に埋没して遺構が少なくなっており、少し散策してみたがあまりよくわからなかった。案内にそってバイクで登ったはいいが、道路状態が悪くてUターンわするところもなく、にっちさっちもいかなくなって苦労したので、徒歩で登っていったほうが無難かもしれない。
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