出水市の武家屋敷の後背にある城で、地図上には花見ヶ城とあり、現地には亀ヶ城という名で記されているが、一般には出水城の名で知られている。
出水の地は、古代には泉や和泉の字で表され、平安時代末期には、島津荘の開発領主である平秀基の娘婿として、その荘司を継承したとされる肝付氏の祖兼貞が支配し、子の行俊が出水の地を継承して和泉氏を称した。当時亀ヶ城とも呼ばれた出水城を築城したとされる人物も和泉小太夫兼保という名で、これは行俊の子孫であり、築城年代は建久8年(1197)頃とされる。以後、兼保の子孫が居城としていたようだが、南北朝時代の島津家当主貞久の弟実忠は和泉を称しており、この頃には島津氏から養子を迎えたか、もしくは滅ぼされるかして、出水周辺は島津氏が支配するようになっていたとみられ、更に享徳2年(1453)には宗家当主久豊の子用久が出水城を改修して入城し、以降は島津薩州家の本拠となった。
用久の4代後にあたる実久は、有力庶家としての勢力の大きさと、宗家当主勝久の室の兄弟という関係から宗家を継ごうとし、これを嫌った勝久は、伊作家と相州家を相続して実久に唯一対抗できる勢力を持っていた忠良を頼り、忠良の子貴久を養嗣子にして守護職を譲った。こうして一旦隠居した勝久であったが、守護職に未練を感じて実久の謀略に乗り、忠良・貴久父子を鹿児島から追って復帰した為、忠良・貴久父子と勝久・実久の争いへと発展した。両者の対立は勝久・実久方優勢のうちに進んだが、やがて実久と勝久が対立して勝久は鹿児島を追われ、忠良方へと転じた。これを契機として忠良・貴久父子は勢力を盛り返し、加世田別府城を始めとした諸城を落城させ、実久は天文9年(1540)ごろには出水地方に押し込められている。
両者の争いは実久の死まで続いたが、実久の子義虎は貴久の子義久に仕え、その娘を娶るなど優遇された。しかし、その子忠辰は父の対応に不満を抱き、朝鮮の役の際には島津軍と別の陣立を希望したものの許されず、その為に軍務を怠って秀吉の怒りに触れ、改易されてしまった。これにより、出水の地はしばらく秀吉の直轄領となったが、朝鮮の役での義久の弟義弘の活躍なとがあり、その功によって島津宗家に戻されている。
城自体は、薩州家改易の時か江戸時代初期、もしくは元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われるが、肥後との境目であった出水は、島津家にとって領地防衛の最重要地域であった為、外城の建設は領内で最も早く始められたとされ、この出水の外城を手本にして他の外城が造られたともいわれている。また、外城の規模は100以上あった外城の中でも最大規模であったといい、このことからも島津家がどれだけ重要視していたかがわかる。
現在の出水は、外城の武家屋敷や二重鎖国の象徴であった関所跡が整備され、昔の面影を残した長閑な町となっている。訪れた時は、麓集落の地図で亀ヶ城の名を見つけ、周辺の道路を何周もしたが、登山口の表示を見つけられなかった。結局時間の都合で諦めたが、舗装されていない農道のような道を登っていけば辿り着けたのかもしれない。 |