伊作城 所在地 鹿児島県吹上町
吹上町役場東1km
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/5
伊作城縄張図 伊作島津氏の本拠地で、13世紀後半の元寇の頃に伊作島津氏の初代久長が築城したといい、詳しくは文永8年(1271)説などがあるが、はっきりとはしていない。
 城は、本城であった亀丸城を中心に、東に蔵之城、東之城、西に西之城、花見城等合計10の郭で構成されており、南九州の他の城と同様にシラス台地を利用しているので、台地間の侵食された谷を使った堀切はかなり深く峻険である割に台地上の平坦地は広い。規模はなかなか大きく、地形を最大限利用した要害である。
 伊作島津家は、島津氏初代忠久の曾孫にあたる4代忠宗の弟が、前述の伊作家初代となる久長で、後に近世島津家を輩出した庶家として有名なのだが、伊作家10代忠良は、宗家当主忠国の子で伊作家を継いだ久逸の孫にあたり、血縁的には宗家とそう遠くない。
 忠良は、幼い頃に父善久を失い、母が相州家の運久に再嫁した縁で、相州家をも相続して伊作家と合わせ、庶家の中でも薩州家の実久と並んで有力な力を持つこととなった。当時の宗家当主は忠治、忠隆、勝久の兄弟であったが、幼弱な当主が続いたこともあって庶家庶流の台頭を許し、最も力を失っていた時期であった。そこで忠良は、勝久を援護して子の貴久に島津宗家を継がせるよう運動し、室の兄弟として横暴であった実久を嫌った勝久は貴久を養嗣子として迎え、大永7年(1527)に守護職を譲った。しかし、忠良父子が鹿児島の清水城に入城し、隠居した勝久が伊作城に退くと、実久は忠良と勝久の離間を謀って勝久の守護職復帰を画策、やがて実久と勝久は連合して清水城を襲った。鹿児島を追われた忠良父子は伊作城を奪回し、ここを拠点として地道に勢力を拡大していくが、この頃は実久が圧倒的に優勢であった。
 一方、鹿児島に復帰した勝久は、被官層と対立して勢力の分裂を招いたが、やがて実久とも対立し、敗れて鹿児島を去った。ここで忠良は再び勝久と連携して一宇治城に本拠を移し、勝久を支持する国人層を整備して家臣化、忠良自ら人生で最も激しかったと語った実久軍との戦闘をくぐり抜けて各地で撃破し、実久を出水へと追いやって四半世紀ぶりに鹿児島に復帰した。
 以降島津氏は大きく発展していくわけだが、伊作城は本拠が移ったことによって支城となり、江戸時代は薩摩藩独特の外城制度のひとつとなった。ただ、外城制度が伊作にあったということは、恐らく他の多くの麓と同様に江戸時代初期か元和元年(1615)の一国一城令で中心であった城が廃城となり、麓が成立したと考えられるので、それまで城は存在したのだろう。現在の城跡には、島津家の戦国時代の大きな発展の原動力となる優秀な島津四兄弟もここで誕生したことを記念し、忠良、貴久と共に誕生碑が祀られている。
本丸にあたる亀丸城にある島津四兄弟ら一族の誕生碑 城には、現在も自然の地形を利用した深い堀切と広い郭が健在で、郭の中には土塁も残っている。付近に麓という地名があるのは、外城がこの地にあった証拠であるが、城はそこからやや離れた場所にあったので、本丸の亀丸城の案内を見つけるのに苦労した。案内板がある場所から城に登る遊歩道が整備されているが、シラス台地を利用している為に急峻な坂が多く、少し体力が要る。土砂の堆積で空堀が浅くなっているはずの今でさえこうなのだから、当時はもっと深く峻険で、攻撃を受けつつ登らなければならない兵達にとっては、どれほど大変なものだったのか想像に余りある。
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