平佐城 所在地 鹿児島県川内市
区分
最終訪問日 2001/11/5
 古代には薩摩の国府が置かれていたと推定され、国分寺もあった川内には、平佐城をはじめ、高城や隈之城という地名も残っている。それはつまり、古代より薩摩の要衝の地であった川内を押さえる城が、複数あったことを物語っている。
 川内には、島津氏の薩摩入部以前に薩摩氏がおり、近隣を統治していたらしく、薩摩忠友が築城したとされる。しかし、南北朝時代には、平佐城は碇山城を本拠とする総州島津家の所領であったようで、応永14年(1407)に総州家当主守久の弟忠朝がこの城で叛乱を起こし、後に惣領となった奥州家の元久と争っている。その後、一帯は入来院氏が領するようになり、更に戦国末期には島津宗家の直轄領となった。
 天正15年(1587)の九州征伐では、平佐城を守っていた桂忠ムが、4百に満たない小勢ながら秀吉軍約1万を迎え討ち、義久の降伏命令まで城は落ちなかった。戦後、秀吉が検証の為に城を検分した時、防御設備の貧弱さに驚き、忠ムの戦いぶりを激賞したという。
 その後、平佐城は、文禄4年(1595)に累代の本拠である都城から移ってきた島津一族北郷氏の支配下となり、文禄の役で当主忠虎が病没して幼主を後見していた忠虎の弟三久が三俣高城から入部した。そして、都城を引き継いでいた伊集院家が慶長4年(1599)に庄内の乱を起こし、翌年に頴娃へ移されると、北郷本家は都城に復帰したが、三久は平佐に留まり、そのまま外城として維新まで続いた。したがって、城は外城が成立する前後、江戸時代初期か一国一城令で廃城になったと考えられる。
 現在、標高10mから数10mの丘陵にあったという城の遺構は開発によって破壊されてしまい、はっきりとした構造は分かっていないらしい。城の一部であったという駅を訪れてみたが、構内にも案内板にも城に関する表示は一切無く、城址碑などの城跡を示すものの場所が分からなかった。後で知ったが、駅は三ノ丸跡にあり、ニノ丸跡にある小学校に碑が建っているらしく、本丸跡は住宅地に埋没して遺構は失われているという。
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