知覧はもともと知覧院と呼ばれ、平安時代に薩摩平氏が開発した土地で、その子孫である伊作平次郎良道の三男忠永は、建久年間(1190-99)に頴娃や知覧などを相続して頴娃氏の祖となり、更にその子忠信は知覧を与えられて知覧氏の祖となった。
一方、鎌倉幕府成立直前に入部した島津忠久は、薩摩大隈両国にまたがる島津荘の下司職に就任し、やがて両国の守護と島津荘惣地頭に補された。忠久やその子孫は一族を各地に地頭として配し、知覧にも一族を配してその系統も知覧氏を名乗ったといわれているが、こちらの略歴ははっきりしていない。
以降、平氏系の知覧氏は郡司を、島津系知覧氏は地頭職を世襲していたとされるが、文和2年(1353)足利尊氏が、島津家5代貞久の弟で佐多氏の初代となる忠光に知覧を与えたことによって佐多氏の支配地となり、南朝方であった平姓知覧氏は、又四郎忠世の討死によって南朝勢力と没落を共にした。また島津系知覧氏も、どうやら佐多氏にとって代わられるように室町時代には没落していったらしい。
知覧城に関する最も古い記録は、応永27年(1420)に島津家8代久豊が知覧を押領していた今給黎久俊を討伐し、佐多氏の由緒の地であるとして佐多氏4代親久に、当時上木場城と呼ばれていた知覧城を与えたとある。以後佐多氏の本拠地として機能したが、豊臣政権期の天正19年(1591)に、一族が禁止されていた海賊行為を行ったとして川辺の宮村に移され、島津家の直轄領や種子島氏の領地となっていた。この前後、知覧城は火事で焼失するなどして機能を失い、外城の集落はやや離れた現在の武家屋敷群がある場所に構成されるようになったという。
その後、佐多氏は江戸時代になって知覧に復帰し、島津宗家から養子を迎えるなどして島津の名に復した為、江戸中期以降佐多島津氏と呼ばれるようになった。ちなみに、現在観光名所として残っている武家屋敷も宗家から入った久峯が整備したもので、中心の道である本馬場の見通しは悪く、それぞれの武家屋敷も木々を植えて外から見えないようにすると共に、門から玄関までに屏風岩を置いて一度は曲がらなければならないような形にしているなど、軍事臭の強い構造であった。
知覧城がいつごろ築かれたかはよくわからず、伝承では平姓知覧氏の初代忠信が築城したともいわれているが、その構造は南九州によく見られるシラス台地突端部を利用した城で、侵食された谷をそのまま空堀にし、台地上に10余りの郭を築いていた。その中心は本丸、蔵之城、今城、弓場城と呼ばれる部分で、これを取り巻くように重臣の屋敷だったと思われる台地などが見え、東西700m、南北600mの大きな規模を持っていたらしい。
現在は発掘調査が進み、史跡公園として整備されているが、訪れた時はその発掘調査で立ち入り禁止となっていて散策できず、あまり来れる場所ではないだけに、かなり残念だった。 |