新高山城 所在地 広島県本郷町
JR本郷駅北西2km沼田川沿い
区分 山城
最終訪問日 2001/11/11
新高山城遠景 小早川氏は桓武平氏土肥氏の流れで、小早川を名乗った遠平が安芸国沼田庄に地頭職を得たのが沼田小早川氏の最初という。遠平の孫茂平は沼田川の対岸に高山城を築き、新高山城の場所にはその子雅平が対塁を築いたといい、これが新高山城の前身となる。
 小早川氏は入部以来、安芸東南部の国人として力を持っていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて分家の竹原小早川家が台頭し、本家の沼田と分家の竹原という2つ家が並立するようになった。やがて、戦国時代に入ると沼田家は当主の早世が相次ぎ、竹原家が弘平の時に惣領となったのだが、その竹原家も弘平の子興景が子のないまま、天文10年(1541)の銀山城攻めの陣中で病没してしまった。この時、興景の室が毛利家出身だったことから、翌々年に元就の三男隆景が養子となって継いだのだが、これは自陣営にある安芸国人の弱体化を防ぎたい大内義隆の思惑があったとされる。一方、本家の沼田小早川家も、隆景入嗣と同年に当主であった正平が月山富田城攻めからの退却中に20代の若さで討死し、跡を継いだ子繁平は幼少の上に視力を失ってもいた為、御家存続の危機にあった。この小早川家の危機に再び義隆の意向が働き、また、名を揚げつつあった元就を後ろ楯としたい小早川家臣の思惑もあって、両小早川家中で相談した結果、繁平の妹を隆景に嫁がせることによって天文19年(1550)に両家が統一された。
 沼田小早川家が本拠としていた高山城に入った隆景は、竹原小早川家が持っていた水軍を活用する為に、船の係留と海への展望を考え、天文21年(1552)に高山城の対塁があったこの地へ新たに城を築いた。中世的な高山城から館や家臣屋敷を包含できるより近世的な山城への移行と共に、人心刷新の意味もあったと思われ、双方とも当時は高山城と呼ばれたが、新旧を区別してこちらは新高山城と呼ばれている。
 隆景は、この城を本拠として主に山陽の経略を担当し、兄の吉川元春とともに毛利の両川として本家を支え、対外折衝の役割も担った。だが、永禄10年(1567)に三原城が築城され、毛利家の勢力拡大に加え、織田家や宇喜多家、本願寺などといった東方の勢力との折衝が盛んになると、水運の便がより良い三原城に在城することも多かったようだ。
 その後の隆景は、織田家の中国方面軍司令官だった秀吉と天正10年(1582)の本能寺の変直後に和睦した後、毛利家の対外折衝の窓口であったことから懇意となり、秀吉政権下で五大老に任命され、秀吉の縁戚である秀秋を養子にして文禄4年(1595)に隠居し、翌々年に死去した。一方、新高山城も、隆景が隠居の際に三原城を隠居地と定めたことから、慶長元年(1596)の三原城改修時に巨石などの用材が三原へと運ばれ、城としての役割を終えている。隆景の青年時代から晩年まで、まるで人生に寄り添うように存在した城であった。
 新高山は沼田川沿いに張り出した岩質の山で、新高山城は、この周囲を断崖に囲まれた要害の頂上部を中心に郭を60以上も配し、全山城郭化して屋敷なども取り込んだ近世山城であったという。訪れた時は、沼田川沿いを走っている時に、城の麓に「小早川隆景居城 新高山城跡」の看板をすぐ見つけたが、その近くに登山道は見当たらなかった。辺りを少し回ってみたがそれらしき案内がなかったので、時間の関係もあって登城を断念した。帰ってから調べたところによると、どうやらもう少し南まで回っていれば入山路が簡単に見つかったようだ。また、再訪したいしなければならない城である。
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