鎌倉時代末期の元亨年間(1321-24)に宮地次政が築城したとも、南北朝時代に備後守護となった足利氏流の渋川義行が築城したともいう。
渋川氏は、足利泰氏の次男義顕(兼氏)か、その子義春が上野国群馬郡渋川郷を領して渋川を称した足利一族で、義季以降宗家の足利氏に従って転戦した。義季の子義行は、若年ながら足利一族として優遇され、斯波氏経の後任として貞治4年(1365)九州探題に任ぜられたが、守護となった備後までは下向したものの、結局は南朝勢力の強かった九州に渡れないまま任を解かれた。もし、義行が鳴滝城の築城者であれば、この頃のことと思われる。
その後の渋川氏は、今川了俊貞世が九州で北朝勢力を拡大した後、了俊の後任として義行の子満頼がようやく九州に入部し、探題職を世襲していくが、この備後には庶族と思われる渋川氏が残り、小童城主として戦国時代まで続いている。この渋川氏は、毛利元就と血縁関係にあったが、巨大化した毛利家の家臣となることもなかったようで、いまいちその最末期ははっきりとしていない。
もう一方の築城者として名前が挙がる宮地氏は、築城したかどうかは別として、南北朝時代から室町時代にかけては鳴滝城主だったようだ。伝えられる話では、次政以降もこの城を本拠とし続けたが、3代後の恒躬が応永30年(1423)に木頃経兼の襲撃に遭って討死し、城も落城したという。この時、子の明光は因島村上氏を頼って落ち延びたが、城の奪回を図って失敗し、三原でしばらく暮らした後、この辺りに戻って帰農したらしい。明光が城の奪回を図ったことから、落城後は木頃氏の城として存続していたようだが、以後は歴史の表舞台に出てこず、動向は不明である。故地に戻って帰農が可能だったことを考えると、城はその頃には廃城になっていたのかもしれない。
ちなみに、宮地資弘、鳥居資長といった名が因島村上氏の家臣に見えるが、両人は明光の子といい、主に水運などで活躍して因島村上氏の勢力拡大に貢献した。恐らく、恒躬の頃から瀬戸内海の水運に影響力を持っていたと思われ、その人脈とノウハウが孫に引き継がれたのだろう。
城は、鳴滝山の東南に伸びた峰に在り、頂上部は削平されて城跡の碑が建っている。ただし、手入れが入っていない為か藪になっており、碑はなんとか確認できたものの、それ以外は思うように歩を進めることができず、満足に散策できなかった。また、周囲にあったであろう郭は、頂上部以外が開墾されている為、よく判らなかったが、開墾されている平坦部が郭跡であった可能性が高く、そこからおおよその城の形は想像できる。標高や平坦部の形から、典型的な中世山城だったようだ。
現在は鳴滝山登山の為の道があり、すぐ近くまで車道が通っていて、標高の割に比較的楽に登れる。また、城の近くにあった墓地には宮地姓が多く、舞い戻って帰農したという伝承と符合している。
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