三原城 所在地 広島県三原市
JR三原駅周辺
区分 平城・海城
最終訪問日 2001/11/11
JRのすぐ下にある巨大な天守台 永禄10年(1567)、瀬戸内の水軍を掌握していた小早川隆景が、三原湾に浮かぶ大島、小島を結んで、城郭兼軍港として築城した。満潮時には、まるで浮かんで見えることから浮城の名があり、秀吉もその縄張を賞賛したといわれる。
 天正10年(1582)前後に大きな改修が施されており、その時期に城は完成したと考えられるが、さらに慶長元年(1596)には、筑前国名島城を養子秀秋に譲って隠退した隆景の隠居城として改修されている。この時、かつての居城であった新高山城を廃城にしてその資材を用いた改修が施され、東西900m、南北700m、城門14ヶ所、櫓30以上という現在の形となった。
 しかし、隆景は改修の翌年に亡くなり、家督を継いでいた秀秋は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦での西軍から東軍へ戦局を大きく動かす寝返りによって岡山へ加増転封となった為、三原城の完成から小早川家の治めた期間は僅かだった。関ヶ原の合戦後、秀秋に代わって三原城を支配したのは広島城に入部した福島正則で、正則は広島城を首城として領内に6つの城を整備したが、この三原城には養子正之を入れ、西備後地域の要としている。しかし、正則が自身の不注意か幕府官僚の謀略によるものか、無許可で崩れた石垣を補修した咎によって信濃国川中島に流されると、芸備二州を引き継いだ浅野氏の支城となり、浅野忠吉が城代となって維新まで世襲した。ちなみに、正則が整備した6つの支城は廃城になったものが多いが、この三原城だけは備後統治の拠点として一国一城令後も存続が認められている。
 維新後は、水軍の城として築かれた立地を生かし、一時は海軍鎮守府用地となったが、明治19年に正式に呉が選ばれたことにより、後に城地や建物が競売にかけられ、取り壊されるなどした。そして、明治27年には鉄道が本丸を貫き、今のいびつな形となったのだが、富国強兵と西洋化が国是であった当時では、もし鉄道用地とならなくても、結局は破壊を免れなかっただろう。それにしても、水堀を埋め立てたり堀切を利用したりして線路や道路を通す例は結構多いが、わざわざ石垣を削ってまでして、城のど真ん中を突っ切って通しているのは珍しい。しかも、城に駅を造るとなると城跡が跡形もなく消えてしまってもおかしくないのに、石垣が駅と共存しているというのなら尚のことである。
 城の構造は、水軍の城らしく南側の海に船入を開いて直接船で入れるようになっており、本丸を中心として北を除く3方向に二ノ丸を置き、内堀を挟んでその東側に三ノ丸を配していた。また、三ノ丸の東には中堀があり、その外側には惣掘の役目を果たしたと思われる外堀を穿ち、更に城の東西にはそれぞれ和久原川と河原谷川という天然の堀もあった。現地案内板によると、三原城本丸北端にある天守台は日本一の規模で、広島城の天守台の6倍の面積を持ち、「アブリ積み」と呼ばれる特殊な工法で造られていたという。このような近世城郭の特徴である高石垣は、戦乱収まらぬ天正期の改修ではなく、平時であった慶長期の改修で完成したものと思われるが、この時にはすでに広島城が存在しており、慎重で慎み深かった隆景が本家を上回る規模の天守を望んでいたとは考えにくい。また、その規模も天守台としては大きすぎることから、天守郭にする目的の石垣ではなかったかと思われる。実際、城の絵図には、三方に二層の隅櫓を置いて多聞で連結している姿が描かれている。
 現在は、駅の通路が本丸石垣を貫通してはいるが、その一部は形状を留めており、天守台と周囲の堀、船入跡、船入櫓跡、本丸中門跡が駅周辺に残っている。駅からでも見ることができる天守台石垣は、築かれてから400年たった現在でも緩やかで優美な反りが健在で、当時の威容を偲ばせてくれており、その存在感は素晴らしい。
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