銀山城 所在地 広島県広島市安佐南区
山陽道広島I.C.西3.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/11/11
 甲斐源氏武田氏の分家で、安芸の守護職であった武田家の居城。カナヤマと読み、一般に佐東銀山城と呼ばれることが多い。
 安芸武田氏が甲斐武田氏から分かれたのは南北朝時代であるが、安芸の守護職自体は承久3年(1221)の承久の乱の功によって信光が得たのが最初で、その歴史は古い。ただし、甲斐と違って安芸の守護職は武田氏世襲の役職ではなかったようで、信光の後は鎌倉時代中期の信時や同末期の信宗が確認できる程度である。また、安芸武田氏となって分かれるまでは任地へも赴かず、安芸には守護代を派遣していたらしい。
 安芸に根を張るよう勢力を扶養したのは信宗で、銀山城を築いて在地勢力の家臣化を進め、子の信武は鎌倉幕府崩壊時の動乱では幕府側に与したものの、後に後醍醐天皇側へと転じて生き残った。信武はその後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立した建武政権の混乱期や尊氏とその弟直義が対立した観応の擾乱でも一貫して尊氏に味方し、やがて甲斐と安芸の守護職を得、嫡子信成に甲斐守護職を、次子氏信に安芸守護職を分与した。これが安芸武田家の始まりである。しかし、氏信はやがて守護職を失い、以降武田氏が安芸一国の守護になることはなく、いくつかの郡の守護権を持つ分郡守護となった。
 安芸武田氏が再び一国の守護として復帰するのは信栄の代である。ただし、それは安芸守護としてではなく、若狭守護としてであった。将軍義教の側近となっていた信栄は、一色義貫討伐の功によって義貫が持っていた若狭守護職を与えられ、若狭に入部して地盤を整え、以後は若狭武田家となる。この若狭武田家は、信栄の跡を信賢、国信といった弟らが継ぐ兄弟相続となったが、安芸の分国は兄弟の父である信繁や弟である元綱が管理し、長禄元年(1457)には城下まで押し寄せた大内教弘を毛利氏などの協力によって撃退するなどした。しかし、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では、元綱が惣領家から離反して独断で大内方へと寝返り、後に当主国信と和解したものの、以後は元綱が安芸分国守護代の銀山城主として独立色を強めていった。
 明応2年(1493)に管領細川政元が将軍義材(義稙)を追放するという明応の政変が起こった後、義材を受け入れた大内義興は安芸への侵攻を開始し、元綱・元繁父子は勇戦するも、最終的には大内氏への臣従を余儀なくされた。そして、元繁は義興の上洛にも付き従うが、厳島神社を巡る内訌の収拾を義興に命じられて帰国したのを機に、尼子氏の支援を受けて再び独立を志向した。しかし、大内方の毛利・吉川連合軍によって永正12年(1515)に有田城を攻略され、更に同14年(1517)には有田城を奪回しようとした元繁が有田中井手の合戦で毛利・吉川連合軍に討たれしまい、勢力を大きく後退させた。
 元繁の跡は嫡子光和が継ぎ、大永4年(1524)や享禄元年(1528)には銀山城に押し寄せた大内軍を尼子氏の支援などで何とか退けるなどしたが、斜陽となった家運は光和の早世もあって如何ともしがたく、光和の後継として若狭武田家から迎えられた最後の当主信実は、家臣団の分裂もあって城から逃亡せざるを得なかった。信実はその後、尼子氏が毛利元就の居城吉田郡山城を攻めると知ってその協力を得、天文9年(1540)に再び銀山城に入城するが、尼子氏が翌10年(1541)にこの攻城戦で大敗を喫してしまった為、再度逃亡し、同年に大内義隆の命を受けた元就が銀山城を開城させ、武田家は滅亡した。ちなみに、信実の従兄弟信重の子が安国寺恵瓊といわれている。
 武田家の滅亡後、銀山城には大内氏の城番が入り、弘治元年(1555)の厳島の合戦後は毛利氏が城番を置いた。元就は、やがてこの城を隠居城として使う予定だったともいわれているが、結局は改修などの手は入れられなかったようだ。廃城時期ははっきりとせず、天正19年(1591)の広島城築城の際とも、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で毛利家が防長へ転封となった時とも、元和元年(1615)の一国一城令によるともいわれるが、戦国時代の終焉と共にその役目を終え、廃城になったというのは間違いないようである。
 訪れた時は、交通量の多い市街地に近い南側から城へアクセスするのが嫌で、北側から山沿いをぐるぐると探し回ってみたが、行き止まりや私有地へ入る道ばかりで、登山口を見つけることができなかった。どうやら南にある大学の横の道から登れるらしい。
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