福山城 所在地 広島県福山市
JR福山駅北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/11
福山城天守閣 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、安芸備後を領した福島正則は、広島城を本城として6つの支城を配し、この福山周辺には神辺城と鞆城を置いた。この2つの城は戦国時代から存在した城で、鞆城は水運の上で重要な城であり、神辺城はかつての守護所で備後の中心であった。
 元和5年(1619)、正則が広島城の修理を咎められて信濃国川中島に流され、安芸と備後を没収された後、慶長20年(1615)の大坂の陣の戦功で大和郡山に封じられていた水野勝成が、同年に累進して備後10万石を拝領した。勝成は、西国大名への抑えとして山陽道と瀬戸内両方に睨みの利く新城を築城することにし、神辺城と鞆城を廃城にして元和8年(1622)に完成させたのが福山城である。
 築城にあたっては、神辺城にあった櫓が移されて神辺一番櫓から四番櫓となるなど、廃城となった周辺の城から多くの資材が移築されたのは当然として、これとは別に幕府からは、莫大な金額が貸し付けられたほか、伏見城から松ノ丸東櫓だった伏見櫓や御湯殿、筋鉄御門といった建物も拝領している。これは、西国大名の監視役であった重責の表れと言え、特に大坂の陣以降には実質三層までに制限されていた天守が、五層もあったということがそれを象徴している。
 福山城の縄張は、芦田川を天然の外堀として、本丸を中心に方形に郭を配し、二重の堀を備えた近世城郭の基本的な形で、南は芦田川河口の湿地帯を開拓して城下町を整備し、外堀には海から直接入れるようになっていたという。これを見ても、山城の神辺城と海に臨む鞆城の機能を引き継いでというのが解る。だが、このような東西南の厳重な構えに対し、本丸北側は築城時に開削した吉津川の防御力に頼る貧弱なものであった。この弱点を補う為、吉津川周辺に寺院を配置して砦の機能を持たせているほか、天守北側一面には鉄板が貼り付けられており、全国的に銃火器が普及した江戸時代の築城らしい工夫が施されている。
 福山城築城以降、福山藩は水野氏5代、松平氏1代、安部氏10代と続いて維新を迎えているが、幕末の藩主安部正弘は、老中の職にあって日米和親条約を結んだ人物でもある。このことがどれだけ影響したかは分からないが、大政奉還から王政復古という流れの中、長州藩が城の攻撃を企図したり、新政府への恭順後も各地の戦場の前線に投入されるなど、福山藩士への待遇は良いものではなかった。
 維新後、城は明治6年に廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿、鐘櫓などを残して殆ど取り壊され、鉄道敷設によって堀も埋め立てられたが、天守閣などは後に国宝となった。しかし、太平洋戦争の空襲によって天守閣と御湯殿が焼失した為、現在は伏見櫓と筋鉄御門、鐘櫓だけが国や市の重要文化財として現存しているのみである。
 現存している建築物以外では、昭和41年に福山市市制50周年事業として天守閣、御湯殿、月見櫓が復元されており、公園として整備された城跡に点在している。城跡自体は、都市部にあるということも影響してか、城の雰囲気を濃厚に残しているというわけではなかったが、散策してみると雰囲気はなかなか良い。ただし、天守閣の北側に張り付けられていた鉄板だけは、往時の姿に復元されていない。
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